うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ニーチェは「憶断の虜囚」を罵倒する(「寝ながら学べる構造主義」より)

今日は別のタイトルをつけようかと思っていたのですが、うちこの勝手なタイトルがひとり歩きをするといけないので、章の名前をタイトルにしました。今日書くことについては、うちこの感覚では「ニーチェにご用心」「あまりにも人間的なニーチェ」といったタイトルをつけたいところ。
ブッダと並んで置かれている「超訳」本が、ご用心したくなるくらい売れているニーチェさん。この差がなんともせつない感じなのですが、「寝ながら学べる構造主義」を読みながら、書店でドーンと並んで平積みされている状況を見ていたんですね。両方とも、立ち読みもしました。「超訳」って、こういうことを言うのか、とか、ブッダのほうにいたっては「もはや跳躍!」と中の人がオヤジギャグを言いたくなるようなものもありつつ、「売れる本」の作り方を見た気がしました。


以前からニーチェの言葉には二つの顔を見るような感じがあり、ひとつは「めっちゃ"愛"の人。インド人みたい!」という顔。もう一つは「なにかを悪者にして、キャッチーなことをおっしゃる人」という顔。なにかがひっかかっていたんです。
そして、「寝ながら学べる構造主義」にはその種明かしのようなことが書いてあった。それが面白かったんです。
そして、この部分に触れるにあたり、この1週間でWikipediaを読んだり、乗り換えの駅で目に入る書店でニーチェに関する本をざーっと読みまくってみた。齋藤孝氏は「通勤でブッダの言葉を読んでもぴんとこないけど、ニーチェはやる気がでる」ということを書いていた。そう、やっぱりキャッチーなのある。それも、たぶん、男子に。Wikiは本当によく書かれているように思う。
そして、その「ハートをわし掴むもの」は、なんだかちょっぴり危険なものに感じるのだ。
まず本の内容の紹介からいきます。
すべて「寝ながら学べる構造主義」からの紹介です。(コメントで引用するニーチェの言葉は【ニーチェの名言「超集」】からいただきました)

<50ページ ニーチェは「憶断の虜囚」を罵倒する より>
 ニーチェの道徳論は、「大衆社会の道徳論」という点において画期的なものでした。
大衆社会」とは何かという定義をしておかないとニーチェの独創性は理解しにくいと思いますので、そこから始めましょう。
 ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群がある方向に向かうと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩打つように殺到するのが大衆社会の特徴です。(ニーチェの予見した「大衆社会」は、その三十年後にオルテガ の『大衆の反逆』において活写されることになります。)
 ニーチェはこのような非主体的な群衆を憎々しげに「畜群」(Herde ヘールデ)と名づけました。
 畜群の行動基準はただ一つ、「他の人と同じようにふるまう」ことです。
 誰かが特殊であること、卓越していることを畜群は嫌います。畜群の理想は「みんな同じ」です。それが「畜群道徳」となります。ニーチェが批判したのはこの畜群道徳なのです。


(中略)


 ここに倒錯的な畜群道徳が誕生します。
 なぜ「倒錯的」かと言いますと、畜群においては、ある行為が道徳的であるか否かについての判断は、その行為に内在する価値によってでも、その行為が当人にもたらす利益によってでもなく、単に「他の人と同じかどうか」を基準に判断されるからです。
 他人と同じことをすれば「善」、他人と違うことをしたら「悪」。それが畜群道徳のただ一つの基準です。
 このような畜群のあり方は、私たちの時代の大衆の存在様態をみごとに言い当てています。
 これまでも強権に屈して畜群化された社会集団は歴史上いくつも存在しました。しかし、近代の畜群はそれとは決定的に違っています。というのは、現代人は、「みんなと同じ」であることそれ自体のうちに「幸福」と「快楽」を見出すようになったからです。
 相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklave スクラーフェ)と名づけました。
 ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者に対する罵倒と嘲笑のことばが渦巻いています。

ここまでが前提条件の説明。均質的になることに深い喜びを感じる感覚はなくても、安心感は感じますよね。というのが現代の感覚だと思います。

  (安心しつつも、)冒険したい
   ⇒「人生を危険にさらせ。」が刺さる
  (安心しつつも、)つらい状況の中でもカッコよく笑いたい
   ⇒「人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった。」が刺さる
  (安心しつつも、)変化したい
   ⇒「脱皮しないヘビは滅びる」が刺さる

現代の「安心しつつも」に近い価値観に対して、ニーチェは前提として「奴隷たち」というスタンスでいたのだけど、時代を問わず、このフレーズは「刺さる」のです。
うちこ自身はこの著者さんのおっしゃる【他人と同じことをすれば「善」、他人と違うことをしたら「悪」】と感じるほどの環境には身をおいていないのだけど、それをもってしても「現代人に刺さる」のがよくわかる。
全方位的にキレイに尖っているんですね。ツルリと。キラーン、と。

<つづき>
 さて、二ーチェの道徳論のきわだった特徴は、このみすぼらしい大衆社会から抜け出す唯一の方法として、「奴隷」の対極に「貴族」を救世の英雄として描き出したことにあります。
「貴族」とは大衆社会のすべての欠陥からまったく自由な無垢で気高い存在です。人類の未来を託するに足る唯一の存在です。


(中略)


 この「貴族」を極限までつきつめたものが「超人」です。
「超人」とは「人間を超えたポジション」のことです。そこから見おろすと人間がサルにしか見えないような高みのことです。
 しかし、具体的に「超人」とはいったい誰のことを指し、また、どうすれば「超人」になれるのか、それについてニーチェはあまり具体的な指示はしてくれません。


「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきものである。あなたがたは人間を乗り超えるために何をしたか。(略)人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない。」(『ツァラトゥストラ』)


 ご覧の通り、ニーチェは「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書かれていません。
 どうやらそれは具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志のことのように思われます。現にニーチェはこう続けています。


「人間は、動物と超人のあいだに張り渡された一本の綱である。深淵の上にかかる綱である。
人間において偉大な点は、彼が一つの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、彼は過渡であり、没落である、ということである。」(『ツァラトゥストラ』)


 ニーチェは「超人道徳」を説いたと言われていますが、実は「超人とは何か」という問いには答えていないのです。彼は「人間とは何か」についてしか語っていないのです。人間がいかに堕落しており、いかに愚鈍であるかについてだけ、火を吐くような雄弁をふるっているのです。

「超人」というのがまた言葉の選び方として絶妙に見えるのですが、「貴族」については自身の出身血族へのこだわり方をみると、自分には(日本人の感覚では)理解できていない背景があるように思います。
そのうえにある「超人」にいたっては、著者さんの書かれているとおり【畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志】であり、いわば中村天風さんのおっしゃっている「絶対積極」に近いものと感じます。
そしてこのあと著者の内田樹氏は、このニーチェの思考について「致命的な欠陥」と言い切って触れていく。

<同章、57ページ>
 結局、自己超克の向上心を持ち続けようとするものは、「そこから逃れるべき当の場所」である忌まわしい「永遠の畜群」をはっきりと有徴化し、固定化し、「いつでもお呼び出し可能な状態」にしておくことを求めるようになります。超人たらんとするものは、おのれの「高さ」を観測する基準点として、「笑うべきサル」であろうところの「永遠の賤民」を指名し、身動きならぬように鎖で縛り付けることに同意することになります。
 ニーチェの超人思想がこうして最終的にたどりついたのは、意外なことに、みすぼらしく暴力的な反ユダヤ主義プロパガンダでした。それが彼の死後にどのような災厄をヨーロッパに及ぼすことになるか、ニーチェ自身は果たして想像していたのかどうか知る術はありません。

なにかの欠点を指摘するときのこういう強い書き方には「勇気あるなぁ」と思う著者さんなのですが、うちこが感じていた違和感の表現としては、完璧すぎます。
「なにかを悪者にして、キャッチーなことをおっしゃる人」と書いたのですが、「サルの用意のしかた」に、特定の誰かや何かを想定した「強さ」や「執着」が感じられるんですね。


 この人の言葉の強さの背景には、「執着」がある。


そんなふうに感じていたところでWikipediaを読むと、驚く。
いろいろな「執着」があったのだと思うのだけど、なかでもワーグナー(音楽家の有名な人)に対するそれにはものすごいものを感じるし(熱狂的過ぎたファン)、恋もちょっぴりねじれていて、せつない。
「真の友人は両手で捕まえておけ。」なんて言葉は、せつなすぎる。


いっぽうで、「愛のかたまり」のような言葉もある。

あなたにとってもっとも人間的なこと。
それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないことである。


よしもとばなな氏の「海のふた」にでてきた、やさしい言葉を思い出した。



ニーチェの精神は、最終的には「崩壊」してしまいます。
Wikiのまとめは淡々としていて、なかでも以下の説明がよい。

いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

このフレーズに、誰かの顔が浮かぶ人は多いでしょう。
うちこは、「カリアッパ師⇒中村天風師⇒沖正弘師」のラインがブォワ〜っと浮かびました。
別に「超人」とか言ってなかったし、そんなにキャッチーでもなかったし、宙に浮こうが針の上を歩こうが「そんなことができて、何になるんだ」って言ってたし、なんにも超えようとしていなかったのだけど、三師の文字列が浮かびました。
同じことでも「一体化」っていう言い方になるとヨギになるみたいだね。おもしろい。
そして、「無執着」を説いたブッダがキャッチーじゃないのはもう、しゃーないね(笑)。

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