うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

境界例の病理と患者への実践的な対処法(「こころの定点観測」より)

年末に紹介した「〈こころ〉の定点観測」からの抜粋です。「境界例(ボーダーライン)患者の二定点観測 ─ 20年間の変化」(鈴木茂)という章のなかで、2000年10月に浜松の総合病院で行なわれた講演の内容が紹介されていたのですが、専門家ではないうちこが読んでも周囲に心当たりが多くある内容でした。
境界例」と「分裂病」のちがいについても学びました。会社、ヨガの場、日常の移動でさまざまな人に会います。常時いろいろ感じる「うーん」という対人的な状況について、「きっとこの人はこれにとらわれているから、これが解消されない限り、きりがない」という整理がどんどん早くできるようになってきた。
「この人はこれに萌える(執着ではなく)」というのがわかって、そこで共感する人とは友達になれるのだけど、たまたまそのとき、その人の持っている執着案件の近くを通ったというだけで、「キター!」とがっつかれそうになるときがある。
そいういうときも、水槽の中の魚を見るようにその人の心の中をしれーっと観察してみたりするのですが、その人自身が「自分が上になりたい」「自分は間違いなく下」のどっちの潜在意識でいるかで二分するなぁ、となんとなく感じていました。
「自分が上になりたい」の人の中でも、「この瞬間は」で済む人と、「ぼんやりずっと」の人がいます。後者の人に友人と認識されると、低い意識にひっぱる発言を聞く機会が爆発的に増えてしまうので、完全に「公害」と認識してしまってよいと思っています。ただし、身内の場合は腹をくくって面倒を見ています。うちにいるアルコール依存症のDV実父のことです。


そんな毎日なので、以下の講演の内容がとても面白かった。
順番は感想を書きやすいように少し入れ替えて、いくつかに分けてコメントしながら紹介します。

二○○○年の講演『境界例の病理と患者への実践的な対処法』

境界例の本態】
診断基準はDSM-IVその他の書物を参照して頂くことにして、境界例という「病気」の本態は、要するにアルコールや薬物や摂食を求める代わりに、「やさしさ」や「対人的なぬくもり」を過剰に求める「嗜癖」ないし「関係依存症」なのであって、それは人格の未発達に関連した「幼児的心性」に由来すると考えられる。

関係に依存しながら生存確認をする人(や、その場面)というのは一定比率存在するので、必ずみなさんの身近にもある「成分」だと思います。ただ、それが絶え間なく相手を選ばず異常に多い人というのがいる。(参考日記「つぶやく人々」)

【対応する看護婦がなぜストレスを味わうのか】
(1)通常の看護学が教える「共感・受容・ヒューマニズム的な対応」の盲点をつくから。
(2)自分をあくまでも子供の立場に置いて、相手を一方的に大人(とくに保護者)の立場に仕立てあげようとする(自分の言動の責任を相手方に全面的に譲渡しようとする)から。
(3)知・情・意のなかで、知(合理的認識)と意(持続する意志・我慢・自制)が未発達で、情の領域ばかりでコミュニケイトしてくるので、こちらにも感情的な反応が過剰に引き起こされるから。言葉は知的には通じておらず、もっぱら情緒的に受け取られている。
(4)言葉で訴える間もなく、待ったなしで行動に出るために、無視もできないから。

このまろやかバージョンでのストレス耐性を、ネットを使う人は日常的に「相互フォロー」とか「ファン」とか「マイミク」といったソーシャルメディアの「つながり定義」で修練をされたりしていると思うのですが、たぶんこれの(3)の「情」にしても「情報」の領域だけでのコミュニケイトがしんどさの原因かと思います。
団地のオバチャン的なコミュニケーション」をいかに品よくできるか、というのはあって悪くないスキルだと思う。特定の人を避けることも、なんとなくゴミ捨ての時間が合わないようにしするのと同じなので、それが可視化されていても気にしたら使えない。「避けてるかもね」ってだけだしね。
(4)の「待ったなしで行動に出るために、無視もできない」というのは、これ病院だからですけれども、学校の先生はもっと大変だと思う。


境界例患者の病理に合わせた具体的な対応法】
患者の考え方や感じ方は、わりと単純な構造をしているので、そのパターンを知り、反応を予測できるようにする。彼らのものの見方はつねに一面的なので、多面的・複眼的に見る練習をしてあげる。感覚的な内容の断片にすぎない陳述を、然るべき文脈や時間・空間の形式の中に置き直し、カテゴリーを適用することで経験的知識として構成する手助けをする。その時どきで変わる患者の考えや感情に合わせて、こちらの対応を便宜的・操作的に変えてはいけない。たとえその場では嫌われたり口論になりそうでも、こちらは常識に則った、一貫性のある、率直な態度で接し通すこと。そうすれば、そのうち患者の方からこちらに合わせてくる(か、もう現われなくなる)。
 人間的・共感的な治療は、境界例患者を相手にする場合には無効ないし有害であることが多い(成田善弘)。共感や受容を試みる医者や看護婦は、当初は好かれても、一か月もたつと恨まれたり、ひどい感情関係に陥る。内面的な気持ちとか心理のアヤに焦点を当てるのはいい加減にして、むしろ患者の言動を大きく外側から知的に把握し、行動や出来事がもたらした結果を重点的に話題に取り上げる。


(中略)


現代のストーカーとは違って、陰湿に根にもつことがないのは彼らの美点である。彼らはイヤガラセに無言電話をかけたとしても、無言でいることに耐えられず自分からしゃべり出してしまう。要するに、彼らには憎めないお人好しなところがあって、一部の患者は自分の滑稽さを自覚できる強みがある。主治医の応答を面白がって、すぐに笑い出す患者もいる。彼らから「喜劇的」な側面を引き出すことは、治療関係の緊張度を減じることにつながって、「悲劇的」なドラマを合作してしまうよりもはるかに有益である。

「その時どきで変わる患者の考えや感情に合わせて、こちらの対応を便宜的・操作的に変えてはいけない。」というのは、本当にそうだと思う。「陰湿に根にもつことがない」のも、そうかもしれない。リアクションを求めてこなくなる時点でかなりさっぱり「あきらめてくれた」と感じられるから。
「イヤガラセに無言電話をかけたとしても、無言でいることに耐えられず自分からしゃべり出してしまう」というのは、笑えるなぁ。

【個人の病理なのか? 関係性の病理なのか? また個人の病理だとすると、それは病気なのか? それとも性格なのか?】
答えは、ともにイエスというべきだろう。境界例患者が決して近づこうとしない種類の人々が、世間にも病院スタッフの中にも存在する。「冷たく、堅く接する人」には境界例患者は(本能的な嗅覚から)「相手にされない」と感じて近寄らない。境界例患者に甘えられたり、自分の感情を揺り動かされる人は、その人自身が「やや境界例的な」人なのである。感情的に適度に揺り動かされるが、それを知的にきちんと認識でき、意志的にも統制できる人は、境界例患者の治療スタッフとして適している。


(中略)


 患者は常にスタッフとの心理的な距離を縮めたいと熱望しているので、患者との距離を調節する手綱は常にこっちが握っているという気持ちでいる必要がある。「厳しく(熱心に)叱る」と、患者は叱られた内容などはそっちのけで、「愛情から叱ってくれた」と(勝手に)思い込み、何の反省にも繋がらずますます依存してきたりする。長時間「熱く」説得するのは逆効果で、むしろ毅然として、事務的な態度で「やや冷たく突き放す」ほうがよい。


(中略)


患者にとって「厳しい」「煙たがられる」存在になることを恐れないことが大切なのである。

うっわ。適しているって、わし。
先日仕事仲間に「仕事がうまくいかない理由を自分ではなく外に見つけようとする人は、うちこさんと居るのつらいと思う」と言われて、「インド人みたいな扱いすんな」と言ったら「いや、なんか、かぶるんですよキャラが。松岡修造と」ってまた言われた。



この文の流れで、「分裂病」の場合のアドバイスも出てきます。

 分裂病患者に対してスタッフがどこまでも受容的な態度をとってよいのは、彼らが他人の「やさしさ」や「受容」に対して禁欲的だからである。他方、境界例とは「関係(やさしさ)依存症」であり、彼らが求める「受容」には限りがない。その要求にいつか応えきれなくなるのは最初からわかりきったことなのだから、「ここまでしか、してあげられない」という限界線を早い段階でこちらから明示しておく必要がある。最初はたっぷり受容しておいて、受容が不可能になってから患者を見捨てるのが最悪のやり方なのである。

ものすごく乱暴に分類するとうちこちゃんは分裂のほうに属していると思うのだけど、そこんとこはいつもわたしがチューニングしとるんですよ。と中のオッサンがいうとるよ。ああそうですか。

【治療の目的】
患者に深い自覚を迫ったり、人格の根本的な改変を狙ったりする精神療法は、患者の感情をいっそう不安定にさせるので有害である。そういうことを期待できないのが境界例患者なのだ、と腹をくくって、「その場しのぎを重ねることに始終する」治療姿勢がよい。

その場しのぎを重ねることに始終する! まさに。こういう同僚を持つ人に「その場しのぎ手当て」を支給したらいいのに。だって、かなり努力しないと彼氏ができそうにない女子とか、周りが大変だもの。


以下は、順番ではもう少し前に書かれていたのですが、最後に紹介します。

【患者の将来はどうなるのか?】
根本的な治癒とか遠い将来の目標などを考えず、そのつど引き起こされた問題に対処しながら四○歳まで何とか生き延びさせればよい。「年齢が解決する」部分が少なくない。


対人関係面での欠陥は持続するけれど、濃密な対人関係を自分から避けるなどして不安定な感情を免れたり、対処の仕方が上手になって、四分の三がもはや境界性人格障害の診断基準を充たさなくなる。

40歳で解放されるそうなので、その場しのぎを重ねて応援しましょう。しのぐことも人生経験です。男性は、結婚して落ち着く人がけっこう居るね。「よかったねぇ」と思う。


こういう対処法について考えていると、ソフトボールの守備練習をいつも思い出す。もう2アウトだからタッチアップはないし、打ち上げる展開になってくんねーかなー。とかっていう思考。イレギュラー・バウンドも練習していれば太ももで土手を作れるようになるしね。
「困った人たち」と思うと疲れることに気がついたので、最近は変態的に楽しむ方向へ歩みを進めています。

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