今日は先日紹介した本「タントラへの道」の中から、摩訶般若波羅蜜経 の訳者としても知られている龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の、哲学を超えたとことんな追い込みの記述がわかりやすかったのでご紹介します。
龍樹さんという人は、以前「密教―インドから日本への伝承」という本の紹介に書いたのですが、もとがとんでもないエロ青年。ちょっと不思議な人なんです。うちこは完璧な人よりも、なんだかこういう面を持っている人に惹かれてしまう。でも最終的には以下のような「とことん」なことを唱えていらっしゃる。
タントラへの道 251ページから引用
ナーガールジュナはヨーガチャーラ(補足:大乗教哲学の一派、ヨーガチャーラ派のこと)の<唯心>論に論争を挑み、さらに<心>というものが実際にあるのかどうかということまで含めて問いただした。
ナーガールジュナは仏陀の生涯の教えである第二転法輪にその源を発する般若波羅蜜多心経十二巻を徹底的に調べた。
ナーガールジュナの結論は、マードヤミカ派の主要な原理である<自己をとどめること>に要約されている。
彼はどのような哲学的な立場も他の見方によって論破される可能性があること、したがって、それが過激なものであれ、穏やかなものであれ、そして<一つの心>の考えかたをも含めて、どのような解答や現実に対する解釈にも心をとどめてはならないと説いた。
<心をとどめざること>が答えだと見ることさえごまかしだ。
<とどめざること>とさえ心をとどめてはならないのだ。
ナーガールジュナの道は、ただもうひとつの哲学だとは呼ばないまったく違う見方、つまり非哲学のひとつだったのだ。
彼は「賢者は中道にもまたとどまるべからず」と言った。
般若心経は、そう言われてみるとたしかにそうだ。こだわるな、とらわれるな、と説いているからといって、「真ん中で満足しろ」でもないんですね。
普段「無執着」という意識について思うとき、「よしとする」といった着地をしがちだけど、よく考えたら「よしともしない」なんですね。
「よしとする」ことにも心をとどめない。
どこまでも、とどめない。流れ流れて、「流れることを意識」もしない。
哲学という存在そのものが執着なんですね。
猛☆反☆省! の境地から生まれたものかしら。
反省しても、しきれなかったのではないかな。
そんなことを思いました。