うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

チョギャム・トゥルンパ 講演でのQ&A(「タントラへの道」より)

今日は先日紹介した本「タントラへの道」の問答形式で展開されるものの中からいくつか紹介したいと思います。

そのまえに、動画を紹介しておきます。
この本の題材となった講演と近い時期に行なわれた講演の動画がYoutubeにアップされていました。「Chogyam Trungpa」で検索すると、クリシュナムルティさんとの対話映像も出てきます。


動画でお話を聞いてみると、英語はとても聞き取りやすいのですが、それ以上にこの本の「翻訳のすばらしさ」を感じました。お話をされる様子や声が意外にも「やさしそう」な印象だからです。内容から、勝手にもっと「強い口調」をイメージしていたんです。


▼Spiritual Materialism - Chogyam Trungpa


▼Surrendering Your Aggression - Chogyam Trungpa



以下は、「タントラへの道」(訳:風砂子・デ・アンジェリス)からの紹介です。■〜〜の記載は章の名前です。


■精神の物質主義

Q ─ 信仰とは何でしょう? 有用なものでしょうか?
A ─ それは単純に信じこむ盲信であることもあれば、破壊されることのない確かな信念であることもある。盲信はインスピレーションがない。それは愚かな単純さだ。創造的ではないが、必ずしも破壊的とは言えない。信仰とあなた自信の間に本当の結びつきもコミュニケーションもないとき、それは創造的ではありえない。あなたは愚かに盲信的にその信仰を受け入れたにすぎない。
 信念としての信仰には生きた理由がある。あなたは前もって編み出された解答が、神秘的に目の前に差し出されることを期待したりはしない。あなたは恐れることもなく、それに巻き込まれてしまわないだろうかという疑いもなく状況に取り組む。それは創造的で積極的なアプローチだ。確かな信念があれば、自分を確実に知ることができる。したがって自分を点検する必要がない。それは絶対的な信念であり、今起こっていることを正確に理解することだ。だから、それぞれの状況によって必要ならば他の道や方法を取ることもあなたはためらわない。

瞬間瞬間にリアルな感覚と信念があれば、いちいち自分を点検する必要はない。あっているかどうかなんて誰にもわからないことに、「そもそも・・・」という話をする人は「時間」の不感症なのではないかな。「俺が昔こういうことがあったときに(〜なぜか武勇伝へ)」という何の役にも立たない切り返しをしてしまう人は、「時間と空間」という基本物理から出直さないといけない。



■グル

Q ─ 人生の状況がグルになりはじめるとき、それがどのような形で現れても変わりないのでしょうか? それとも、どのような状況にいるかが問題なのでしょうか?
A ─ 私たちの選択の余地はまったくない。何が起ころうとも、それはグルの現われなのだ。苦しい状況もあれば、楽しい状況もあるだろう。しかし、自己を開いて状況をグルとしてとらえるとき、楽と苦はひとつのものだ。

水戸黄門



自己欺瞞

Q ─ 「わあ、ついにやり遂げたぞ!」と言ったらどうなりますか? それで、全部が帳消しになるわけではないでしょう?
A ─ そうとは限らない。ただその後で何が起こるだろうか? いまのあるがままの状況に関わるよりも、その体験をくりかえし反復したいと思わないだろうか? 私たち開放の最初の閃きによって、測り知れない悦びを体験することができる。それは美しいことだ。しかしその後に来るものが問題だ。その体験にしがみついて、それを再現しようとあがくか、単なる一つの体験としてあるがままにまかせるか ── 。

ちょっと質問の口調がかわいいのが気になりますが、この指摘がこの本全体の中で何度も繰り返されています。そのバリエーションがすごい。

Q ─ 自己回想や自己観察は、ゆだねることやここに在ることと相容れないんでしょうか?
A ─ 自己回想は、実はかなり危険なテクニックだ。それは、飢えた猫が鼠を狙うように、自分と自分の行為を見張ることを巻きぞえにする可能性がある。さもなくば、いま、ここに在ることを示す巧妙な身ぶりになることもありうる。要するに、私がこれを体験している、私がこれをしている、という関係の概念でものごとを捕えるならば、<私>と<これ>とは対等な力をもつ個性だということになる。そして<私>と<これ>の間に矛盾が起こる。<これ>を母親、<私>を父親と呼ぶようなものだ。そのような二つの対極にからまれれば、あなたは何かを生み出さざるをえない。そこで、<これ>を存在させないこと、そうすれば<私>もないという考えかたが出てくる。あるいは、<私>は存在しない、したがって<これ>もないと言うこともできる。それを自分に教えることではなく、実際に感じ、体験することが大切なのだ。二つの極を観察する見張り人を取り除かなければならない。
見張り人が取り除かれれば、機構全体が崩壊する。二極対立が存在しつづけるのは、見張り人がいて、その状況全体を保っているからにすぎない。その見張り人と、中央司令部にいかなる手落ちも許すまいとして見張り人が作り上げた、非常に入り組んだ官僚制度を取り除く必要がある。ひとたび見張り人を取り除けば、そこには驚くばかりの空間がある。見張り人とその官僚制度が、それだけ場所を占めていたのだ。<私>と<他>というフィルターを取り除いたとき、その空間は鋭さ、精確さ、知性になる。それは、そこにある状況そのものと取り組むことを可能にする、冴えた精確さを含んでいる。私たちは<見張り人>や<観察者>をまったく必要としない。

自己回想の危険性への貴重な示唆。
特に、以下のように分解明記しているところが丁寧。

  • 【1】<これ>を存在させないこと、そうすれば<私>もないという考えかた
  • 【2】<私>は存在しない、したがって<これ>もないという考えかた

責任転嫁のふたつの方程式。<これ=責任ある仕事><私=非難への恐怖>に変換するとわかりやすいかな。
自己回想は、この責任転嫁の繰り返し思考にハマってそれが日常で癖になっちゃうのが弊害じゃないかな、と思う。

Q ─ 見張り人を力づくで追い出すことは可能でしょうか? そうすることは、ふたたび、価値づけのゲームになるのではないでしょうか?
A ─ 見張り人を悪党扱いする必要はない。瞑想を実践する目的は、高みに達することではなく、いま、ここに在るのだということがわかってくれば、見張り人は見張り人としての機能を果たすことができなくなり、ひとりでに脱落してゆく。ごく効率的、活動的であろうとするのが見張り人の基本的な性質だ。しかし完全な意識というものは、あなたがすでにもっているものだ。したがってすべてを意識していようとする大望や、いわゆる<腕利き>の見張り人であろうとする試みは、自らを打ち負かそうとすることだ。その無意味さに見張り人が気づいたとき、彼は消える。

「<腕利き>の見張り人であろうとする試み」という表現にうなってしまいます。



■厳しい道

Q ─ 自己を開き、さらけ出すという表現のしかたは、私にある種の精神療法を思い出させます。精神療法の役割についてはどう思われますか?
A ─ 精神療法のほとんどの場合に問題になるのは、そのプロセスを<療法>と見なすことによって、それが本当に切実なあなた自身の問題ではなく、ただ従うべきひとつの<療法>になってしまうことだ。言いかえれば<療法>はあなたの趣味になる。さらにあなたは、自分の症状が個人的な生い立ちの歴史によって決められたものだと信じこむ。父親や母親との関係が正常でなかったから、自分はものごとに対する健康的とは言えない態度をもっている。このように過去の生い立ちをとらえて、自分の現在の状況をそれに結びつけて考えはじめるならば、その状況から脱け出す道はなさそうに見える。そして私たちは絶望的になる。過去をやりなおすことは誰にもできない。私たちは抜けようのない過去の罠にはまってしまうのだ。このような療法はきわめて拙劣だと言わざるをえない。私たちが、いま起こっていること、いま、ここにあるものの創造的な側面と関わることを妨げるという理由で有害でさえある。その反面、精神療法が現在の瞬間に生きること、現在の問題に取り組むことに重きを置くならば、つまり言葉による表現や考えとしてだけでなく、実際に感情や情緒を体験することを強調して示されるならば、非常にバランスのとれた方法になるだろう。残念なことにほとんどの精神療法や精神医は本当にありのままの状況に取り組むことよりも、自分と自分の理論の正しさを証明することに一生懸命になっている。実際彼らはあるがままの状況に取り組むことを恐れてさえいるのだ。

うちこは、医者やカウンセラーと言われる側の人が「社会が人々をこのようにした」という口調であったとき、「こりゃやばい」と思います。そこは棚上げしてはいけないし、専門家に意見を求めるマスコミなどの機関の期待そのものもおかしい。この点については、なだいなださんがよく指摘されています。

つづき
 理論やその他のものによって問題を複雑にするのではなく、もっと単純にしなければならない。現在の状況、この瞬間こそあらゆる過去を含んでいて、しかも未来を決定するのだ。すべてはいまここにある。だから自分の過去や未来の姿を証明するのに現在より遠くを見る必要はない。過去を解きほぐしてみようとするやいなや、私たちは現在の野心や戦いに巻きこまれてしまう。そして現在の状況をあるがままに受け入れることができなくなってしまう。それは愚かなことだ。また自分の精神医を、グルや救い主と見なすことも健康的なことではない。私たちは自分自身を治療しなければならないのだ。実際それに代わる方法は何もない。<精神の友>はある状況のもとでは、私たちの苦痛をさらに強めるかもしれない。これは医師と患者の関係の一部なのだ。精神的な道を何かぜいたくで快いものと見なすのでなく、人生の事実にただ立ち向かうことついてとらえることが大切だ。

「過去を解きほぐしてみようとするやいなや、私たちは現在の野心や戦いに巻きこまれてしまう」は、そのままビジネスになる。解きほぐしビジネス。解きほぐしてわかった気になって、それが何になるのだろう。



■開かれた道

Q ─ 誰かと関係をもちはじめたときには、ある種の暖かみが生まれます。しかしなぜかそのエネルギーが私たちを呑みこみ、とりこにしてしまい、身動きする余裕も空間も感じられなくなってしまうのです。
A ─ もしその暖かみに、裏がなく、自分の安全保障のためというのでないならば、それはそれ自体を支えるものであり、根本的に健康なものだ。ヨーグルトを作るとき、必要以上に温度を上げたり培養菌を入れると、うまくできない。正しい温度を保ち、後は放っておきさえすれば、おいしいヨーグルトができるのだ。

でた! ヨーグルト。ラーマクリシュナさんも御用達のヨーグルト。そして、読んでいてこんなにあたたかい気持ちになった恋愛に応用できる相談も初めて。



■菩薩の道

Q ─ すべてを受け入れる穏やかで受け身の心の状態と、ものごとを識別するより積極的な心の状態との間の往復は、どのようにしたらよいのでしょう?
A ─ まったく異なった角度からものごとを見ることが肝心だ。私たちの日常生活には自分が思うほどの精密さも正確さも鋭さもないと思う。事実、私たちはまったくの混乱状態にある。それは一時に一つのことだけをしないことから来る。何か一つのことをしていながら、私たちの心は百もの他のことにとらわれている。完全にぼやけているのだ。私たちは毎日の生活に臨むそのような態度を変えなければならない。つまり、真にありのままに見る直感的な洞察力が生まれることを許す余裕をもたなければならない。はじめ、その洞察はあいまいで、あるがままを一瞥するだけかもしれない。混乱の暗闇に比べれば、それはあまりにもかすかな一条の光かもしれない。しかしこの知性がより活発になり、浸透するにつれてそのあいまいさは消えてゆく。

この質問は、言い換えると「理解される」ということへの欲求と、「理解されない」ことへの恐怖の取扱い方についてかと思うのですが、そこへ「真にありのままに見る直感的な洞察力が生まれることを "許す余裕"」を「己」に持つべきことだと回答しているところに感動。うっすらと感じていたことをズバリといわれた。



■タントラ

Q ─ ジュニャーナとプラジュニャーの違いは何でしょうか?
A ─ 私たちは智慧を外的な経験と見なすことはできない。これが智慧と知恵、つまりジュニャーナとプラジュニャーの違いだ。プラジュニャーはものごとを相対的にとらえる知恵であり、ジュニャーナはどのような相対性をも超えた智慧だ。あなたは智慧とまったく一体なのだ。私たちはそれを教えられるものとか、体験されるものとは見なさないのだ。

過去に何度か智慧と知恵の違いについて本の感想などで取り上げてきましたが、この本にもあったのでメモとしてピックアップしました。

Q ─ この転換の原理
ヒンドゥー教でサットヴァ(喜)、ラジャス(憂)そしてタマス(闇)と呼ばれるエネルギーに適用されるのでしょうか? つまりタマスのエネルギーをラジャスに変えるのでなく、それを受け入れ、用いることと同じなのでしょうか?
A ─ そう、そのとおり。それは非常に実際的なことなのだ、私たちはあまりにも完全にものごとを準備しようとする。「もしお金ができたら、どこかに行って瞑想の修行をし、僧侶になろう」などと考える。自分のなりたいものが何であろうと同じことだ。しかしけっしてその場でやろうとはしないのだ。私たちはいつも「これができたら次には……」という言いかたをする。つねにあまりに多く計画する。自分のいまの生活、現在の瞬間を修行の機会として使おうとしないで、生活を変えようとするのだ。私たちの中にあるこのためらいが、精神的な修行を後退させる大きな原因になる。私たちのうちの大部分がロマンティックな考えをもっている。── 自分はいまはダメだけれどそのうちに変わるだろう。そしてすばらしい人間になるのだ、と。

カルマ・ヨーガの教え。ちなみに3つのグナについては別途註釈で説明されているので(喜)(憂)(闇)の部分について深読みしようとしなくてよいです。


このかたは「いまここでコミュニケーションができなければ、修行といわれるものに意味はない」と説く。そして、本編の紹介にも書いたけれど、そのなかで「ユーモア」を取り上げている。そして、それを実践している。
「コミュニケーション」については別途いくつかの示唆をまとめた構成でご紹介しようと思います。