ヨガ仲間のチカコさんが貸してくれました。歴史と宗教と心理学をいっぺんに学べてしまうお得な本です。ヨガと自我の「関係」や、組織のなかで起こる「関係」、いろいろなことに置き換えられる法則の話。
ユダヤ文化ついてのヨブ記からの引用は最後のほうで登場するのだけど、そのまえに「反ユダヤ」の心理を追っていく。「私の思弁はここから暴走を始める〜」「誤解されることを恐れずに言えば〜」と、この著者さんらしい語り口で、ドキドキする流れで「区別」と「差別」の境界に迫っていく。
うちこ的には、この本のなかでその点にもっとも触れられているのが「154ページ」「203ページ」にあると思いました。(引用箇所を読んでください)
まずはじめに、
「ユダヤ人って、なに人?」
という素朴な疑問に答えてくれる。問題提起は、こうです。
<8ページ はじめに より>
私たちが自分の暴力性や愚かしさを肯定するのは、それによって得られるものがそれによって失われるものより大きいという計算が立った場合だけである。
そして親切に、まずは前提の整理から始まります。
<23ページ ユダヤ人は誰ではないのか? より>
では、私自身の暫定的なユダヤ人定義からこの論考を始めることにしよう。
語義を定義するのはむずかしい語の意味の境界線を確定するために一つだけ有効な方法がある。
それは「ユダヤ人は何ではないのか」という消去法である。これが私が読者の間に立てることのできる、さしあたり唯一の「共通の基盤」である。
(以下項目のみ抜粋)
第一に、ユダヤ人というのは国民名ではない。
第二に、ユダヤ人は人種ではない。
第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。
第二に〜の説明のときに、二十世紀にナチス・ドイツでユダヤ人の人種概念を一義化しようとした試みである「ニュンベルク法」の紹介がありました。これは、定義することによってさらなる混乱を招く結果になったことが書かれています。最初の問題提起にあった「損得」のバランスがしっくりいかなかったのでした。
<100ページ 善人の陰謀史観 より>
一つの結果には必ず一つの原因があるという命題が正しくないことは、少しでも現実を観察すれば、誰にでもわかる。ふちのぎりぎりまで水で満たされたコップに最後の一滴が加わって水があふれた場合に、この「最後の一滴」をオーバーフローの「原因」であると考える人はあまり賢くない。私が今不機嫌であるのは空腹のせいなのか、昨日の会議のせいなのか、原稿の締め切りが迫っているせいなのか、確定申告の税額のせいなのか、どれか一つを「原因」に特定しろといわれても私にはできない(してもいいが、仮にそれを除去しても私の機嫌はさして軽減しない)。
この著者さんにはクセになる魅力があるのだけど、こういうたとえの「チャーム」にその魅力の原因のひとつがあるんだろうな。
<101ページ 善人の陰謀史観 より>
ある破滅的な事件が起きたときに、どこかに「悪の張本人」がいてすべてをコントロールしているのだと信じる人たちと、それを神が人間に下した懲罰ではないかと受け止める人たちは本質的には同類である。彼らは、事象は完全にランダムに生起するのではなく、そこにはつねにある種の超越的な(常人には見ることのできない)理法が伏流していると信じたがっているからである(そして私たちの過半はそのタイプの人間である)。だから、陰謀史観論は信仰を持つ者の落とし穴となる。神を信じることのできる人間だけが悪魔の存在を信じることができる。
いま日本で起こっていることに対する多くの人の反応に、この姿を見ます。
<104ページ フランス革命と陰謀史観 より>
反ユダヤ主義のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東條英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけてことを終わりにする人々に私は与(くみ)しない。また、彼らの個人的な資質や実績の卓越を論(あげつら)って、「こんなに立派な人物だったのだから、その遺霊は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破滅的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。
彼が善意であることも無私無欲であることも頭脳明晰であることも彼が致死的な政治的失策を犯すことを防げなかった。この痛切な事実からこそ私たちは始めるべきではないか。そこから始めて、善意や無私や知力とは無関係のところで活発に機能しているある種の「政治的傾向」を解明することを優先的に配慮すべきではないか。私はそのように考えるのである。
こんなにわかりやすい靖国問題の説明を過去に見たことがない。
<116ページ フランス革命と陰謀史観 より>
(十九世紀フランス最大のベストセラー『ユダヤ的フランス』エドゥアール・ドリュモン著 近代反ユダヤ主義の古典 をさして)
私たちはこう問わなければならない。どうしてこんなものが売れたのか? どうして文明の花咲く十九世紀フランスにこのような荒唐無稽な社会理論が根づくことができたのか?
その理由が説明できない限り、近代反ユダヤ主義について、私たちは何一つ分かったことにならない。
この理由が次の章で語られます。
<122ページ 『ユダヤ的フランス』の神話 より>
産業革命期以降、フランスがすさまじい勢いで近代化を遂げつつあるそのただ中で、ドリュモンは歴史の流れを逆行させるような物語を紡いでみせた。『ユダヤ的フランス』のマスセールスの最大の理由は読者の琴線に触れるこの懐古趣味にあった。私はそう考えている。
そこに伏流しているのは、変化すること進歩することへの恐怖である。奇妙に聞こえるのを承知で言えば、未来の未知性に対する恐怖である。中世とあまり変わらない生活をしていた人々がわずか一、二世紀の間に、現代と地続きの近代社会に投じられたのである。そのときの不安と困惑がどれほどのものか、その実感を今私たちが想像的に追体験することはたいへんに困難である。
そのような未来の未知性への本能的な怯えのうちにあるフランス大衆の目に、ユダヤ系市民が「変化の象徴」のように映ったという蓋然性は高い。というのは、電気もガスも鉄道も自動車も新聞も……およそフランスの前近代的ライフスタイルを破壊する事業のすべてにユダヤ人はかかわっていたし、汚職政治家や怪しげな政商の中にも、およそドラスティックな社会的変化のあるところには必ずユダヤ人の影が出没していたのである。
この「変化すること進歩することへの恐怖」は、巨大化してくる組織の「個人」の心の中に見える側面のひとつでもあると思う。変化を受け容れる行為というのは、自らの凶暴性の露呈に向き合うことでもある。そのエゴを「対応力」に昇華できない人々がつぶれていくのを過去に何度も見ているので、この流れはとても興味深かった。
<149ページ 起源のファシズム より>
一八九四年段階でのモレスは刻下のフランスの危機を「健常なフランス」への「病んだ英国」の侵入による病態と見立てた。英国は「商人的、工業家的、航海者的、銀行家的」であり、それゆえ「生きるためには収奪せざるを得ない」。「英国は収奪国家の典型であり、その政治は海賊の政治である」。一方、フランスは「農耕者的、職人的、創造的、理想主義的」な生産者である。英国とフランスは原理的に対立せざるを得ない。「諸国民それぞれを律しているドクトリンは永遠に変化しない」からである。
「律しているドクトリン」という絶対普遍のものがある前提であるところに、日本人との違いを感じる。
<154ページ 起源のファシズム より>
私は(〜反ユダヤ本の著者の名前を羅列した後)そのテクストを読むたびにある種の「魅惑」を感じてしまう。そのことを率直に認めようと思う。彼らが愚鈍で邪悪なだけの人間であったら、世界の風景はたしかにたいへんクリアカットなものになるだろう。けれども、実際には彼らは愚鈍でも邪悪でもなかった。もし、私が十九世紀終わりに生まれたフランス人で、その時代の政治的状況にコミットする可能性があったら、ドリュモンやモレスの人間的魅力に強く惹きつけられたかもしれない。そういう種類の想像力の使い方がときには必要だろうと私は思う。
勘違いしてほしくないが、私は彼らを擁護しているのでも弁明しているのでもない。そうではなくて、彼らは今も生きているという事実、彼らのようなタイプの思考の型に魅惑されてしまう要素が私たちの中に今も息づいているという事実を直視しない限り、「ユダヤ人問題」の本質に接近することはむずかしい、ほとんど絶望的にむずかしいということを言いたいだけなのである。
「そういう種類の想像力の使い方がときには必要」「彼らのようなタイプの思考の型に魅惑されてしまう要素が私たちの中に今も息づいているという事実」。これを認識しないで語られる「あいつが悪い論」がなんと多いことか。
<203ページ 殺意と自責 より>
誤解されることを恐れずに言えば、「殺意」はある意味では自然なものである。憎む相手を殺している自分の姿を想像することがしばしば解放感や爽快感をもたらすことを私たちは知っているし、おのれの邪悪さを懺悔することや、おのれの非をあからさまに告白することが激しいカタルシスや解放感をもたらすことも私たちは知っている。
それはつまり、殺意も有責感も、どちらも単独では、それほどに深く人間を損ないはしないということである。もっぱら邪悪な人間も、もっぱら反省ばかりしている人間も、いずれはそれほどには有害な存在ではない。シンプルマインデッドに邪悪な人間には敬して近づかなければよいし、常住坐臥自分の罪責をくよくよ反省している人間はそこらに放り出していても、気鬱なだけで誰にも迷惑はかからない。危険なのは、殺意を抱きつつ同時にそのことについて有責感を抱いている人間である。そういう人間はあまり強い有責感ゆえに、「自分が殺意を抱いている」という事実そのものを否認するからである。
殺意と有責感をブレンドして「元気玉」が作られそうなときは、やっぱり同調してはいけないと思う。この感覚だけは、鈍くなってはいけない。
<220ページ 結語 より>
『ヨブ記』のヨブは合理的に思考する近代人の祖型である。彼はその篤信の行いにもかかわらず恐るべき不幸に打ちのめされた。怒り嘆いて、ヨブは神に問う。自分の来歴を顧みても、ひとつとしてこのような受難の理由になる非行を私は犯してはいない。ヨブはよばわる。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座まで行きたい。私は御前に訴えを並びたて、ことばの限り討論したい。私は神が応えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい」
この問責に神はどう答えたか。レヴィナスを引く。
「『私が世界を創造したとき、おまえはどこにいたか』と『永遠なるもの』はヨブに問います。『たしかに、おまえは一個の自我である。たしかに、おまえは始原であり、自由である。しかし、自由であるからといって、おまえは絶対的始原であるわけではない。おまえは多くの事物、多くの人間たちに遅れて到来した。おまえはただ自由であるというだけでなく、おまえの自由を超えたところで、それらと結びついている。おまえは万人に対して有責である。だから、おまえの自由は同時におまえの他者に対する友愛なのだ』。『永遠なるもの』はヨブにこう語ったのでした。
自分が犯したのではない罪についての有責性、他者たちのための、その身代わりとしての、有責性」他者に対する友愛と有責性、人間の人間性を基礎づけるものをユダヤ教は「人間の始原における遅れ」から導出しようとする。この不条理を人間的条理として受け容れるためには、私たちここでどうしても因習的な時間意識と手を切らなければならない。
ユダヤ教において、おそらく時間は私たちの因習的な時間意識とは逆に未来から過去に向けて流れている。
レヴィナスというのは、エマニュエル・レヴィナス氏のことです。
うちこは、「この不条理を人間的条理として受け容れるためには、私たちここでどうしても因習的な時間意識と手を切らなければならない。」で、インドのカーストを想起する。
<225ページ 結語 より>
ユダヤ人はおそらくその民族史のどこかで、この「不条理」を引き受けられるほどの思考の成熟を集団成員へのイニシエーションの条件に課した。
幼い人々は善行が報われず、罪なき人が苦しむのを見ると、「神はいない」と判断する。人間の善性の最終的な保証者は神だと思う人は、人々が善良ではないのを見るとき、神を信じることを簡単に止めてしまう。「神はなぜ手ずから悪しき者を罰されないのか」「神はなぜ手ずから苦しむ者を救われないのか」。これは幼児の問いである。全知全能の神が世界のすみずみまでを統御し、人間は世界のありように何の責任もないことを願う幼児の問いである。
「なぜあなたの神は、貧しい者たちの神でありながら、貧しき者を養われないのか?」。あるローマ人が古代の伝統的な賢者であるラビ・アキバにそう尋ねたことがあった。そのときラビはこう答えた。「私たちが地獄の責め苦をまぬかれることができるようにするために」。
「人間の義務と責任を神が人間に代わって引き受けることはできないという神の不可能性をこれほどきっぱりと語った言葉はほかにありません。人間の人間に対する個人的責任は神もそれを解除することができないような責任なのです」
レヴィナスはこの逸話をこういう言い方で解説している。
人間の人間に対する個人的責任は「神もそれを解除することができない」。「神もそれを解除できない」のは、人間の責任がまありに大きく重く、神の手に余るからではない(そのような神はその名に値しないだろう)。そうではなくて、「私は有責である」と宣告する人間の出来(しゅったい)と同時に出来するのである。「貧しき者を養うのは私の責任である」と名乗る人間の出現とともに「貧しき者を養う責任」という概念それ自体が世界に誕生するのであり、引き受ける人間のいない責任は「責任」というかたちではこの世界に存在することができない。
自分のこころの立ち位置を変えないまま「状況がよくならない」状態を見るとき、ヨガを信じることを簡単に止めてしまう人が多い。「人間の義務と責任を神が人間に代わって引き受けることはできない」ように、痩せたいなら人並みの半分以上も食うな、以上。なのだ。たまたま、痩せたい人の場合だけどね。
<228ページ 結語 より>
勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も絶した遠い境位に踏みとどまるがゆえに、人間の成熟を促さずにはいない。ここには深い隔絶がある。
この隔絶は「すでに存在するもの」の上に「これから存在するもの」を時系列に沿って積み重ねてゆこうとする思考と、「これから存在させねばならぬもの」を基礎づけるために「いまだ存在したことのないもの」を時間的に遡行して想像的な起点に措定しようとする思考の間に穿たれている。別の言い方をすれば、「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、「私は遅れてここにやってきたので、<この場所に受け容れられるもの>であることをその行動を通じて証明してみせなければならない」と考える人間の、アイデンティティの成り立たせ方の違いのうちに存している。
どうしてこのような文明的なスケールの断絶が古代の中東で生じてしまったのか、私はその理由を知らないし、想像も及ばない。私たちに分かっているのは、このような不思議な思考習慣を民族的規模で継承してきた社会集団がかつて存在し、今も存在し、おそらくこれからも存在するだろうということだけである。
「別の言い方をすれば」以降が読みどころです。人間が「自然の中に置いてもらえている後発の生」と思えるか思えないかは、心の健康を保つ上でとても重要なこと。そして、そう思わない「不思議な思考習慣を民族的規模で継承してきた社会集団がかつて存在し、今も存在し、おそらくこれからも存在する」ってことなんだ。
ね。ヨガ本でしょ。
▼おまけ:過去の同著者さんの本の紹介
「街場のメディア論」「日本辺境論」「寝ながら学べる構造主義」