うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

密教瞑想法 山崎泰廣 著

密教瞑想法 山崎泰廣 著
昭和49年の本。京都のお友達からのいただきもの。
一緒に仏像を見に行ったことがあるお友達なのですが、彼女はどちらかというと外側までガツンとパワフルなのが好きで、わたしはわりと体幹だけがどっしりで、外はゆるかったりキャピっとした逆ツンデレなのが好きなんですけれども、そんな細かすぎる萌えポイントも「ああ、はいはい」とご理解いただけるアホセンスをお持ち(笑)。ありがたいヨガ仲間です。
この本を古本屋で見つけて、「ああ、見つけちゃった」と思ったのかどうかはわかりませんが、こってり楽しみました。ありがとうございます。そしてこの著者さん、なんか見たことあるお名前だと思ったら、東京で阿字観を習ったお寺のテキストに使われている本の著者さんでした。その時、興味を持っておったのでしたよそういえば。


著者さんの読み方は「ヤマサキ タイコウ」さん。5年前のお姿がみられるサイトはこちら。僧侶であり、佐保田鶴治師のもとでヨーガを行っている、という状況で書かれた、真言宗発ヨーガへのアプローチ。ヨガを始めてから空海さんに惹かれていったのと逆ルート。
服装が思いっきり僧侶ですが、やっとるな〜。ずいぶん。

というかたです。


ヨギ、かつ空海さんファンのみなさん、おまっとさんでした!
インドのお話と空海さん密教の教えにまつわるお話がごちゃまぜ。このうえないブレンドのカレー状態。とっても面白かったです。
わくわくしますね! ではでは、いきましょう。


<36ページ 不幸を求める潜在意識 より>
わざわざ苦しい病気に何時までもこびりついていなければならないというのはどういうわけなんだろうか? 人はさまざまの生き方があり、その動機はもっと深いところにあるように思われる。
 つまり、これらは明らかに失敗せんとする意志の俘虜になっているのであり、己を破壊せんとする衝動、おのれに背くものの犠牲になっているのである。フロイドはこのからくりを人間の自己破壊性と呼び、死への願望と名づけた。

いきなり出てくる破壊衝動への示唆。心理学的にも興味深いことが多く書かれています。


<41ページ 熱狂的な羊の供養祭 より>
 インドの民衆にとって、特にベンガル地方ではその熱狂的な信仰を集めているカーリー神はシヴァ神の妃なる女神で、血に飢えれば人間界に災害を与えるので、羊の首を切ってその血を供養するのがカーリー・プージャーで、この祭りの数日前から村や町のあちこちでカーリー神を祭る小屋が建てられ、今夜はその祭りの最高潮を飾る百八頭断首の儀式が行われる。寺の鐘、僧の持つ鈴がけたたましく鳴り響き、一頭断首する毎に熱狂的、否、発狂的な歓声が湧き上がる。かつては人、馬の生贄が行われた供犠のすさまじさを渡印早々、まの辺りに見て、無気力で幻想的なインド人というイメージではとらえられない一面を見た。
 この信仰は、クンダリー・ヨーガや後期の密教タントリズムに大きな影響を与えたシヴァ派シャクティズム(性力主義)のもので、密教源流の一要素をなすものである。

この本には、著者さんのインド旅行記も含まれていて、面白いんです。こんなプジャーもあるんですね。そして、勢力主義のタントリズムの存在についてもさりげなく触れられています。後にも引用します。


<50ページ ガンジス河の精神 より>
ここ(リシケーシ)を少し下ると、かつてビアサ聖者が護摩をたいたと伝えられ、河川の集まる地点にハルドワールという聖地がある。ハルドワールとは「神の扉」の意味であるので、「私の住む神戸と同じ意味の名だ」とインドの人に話すと、ニッコリと頷いた。

心温まる、すてきなエピソード。佐保田イズムなのかわかりませんが、この著者さんもなんだかおちゃめなこと言いだしたりします。後に出てきます。おちゃめすぎる佐保田イズムについては「続ヨーガ禅道話」を参照してください。素敵な関西のおじさまって、めちゃくちゃしっかり仏教のことをオヤジギャグまじりに話しますよね。一晩中お酌しまくりたいくらいです。飲まないだろうけど。


<52ページ 密教への展開 より>
欲望……土俗信仰であったカーリー神は、インド教シヴァ派のシャクティズム(性力主義)においては、無活動な最高実在であるシヴァ神を活動させる原動力はその妃カーリー女神にあると考えられ、その供養によって恩恵を蒙ろうとしたのが前述のカーリー・プージャーであるが、ヨーガ派の中にはこの性力を体操や呼吸、瞑想等によって活用し、解脱を得んとする方向に発展するものや、或いは後期密教のようにセックスの儀式の上に解脱を体得せんとする左道密教の方向を辿ったものもあるが、真言密教では「理趣経」にも(中略)慾そのものは生命の志向する意志であって本来尊いものである。故に欲を制するには、欲を善用し活用することによって欲の本来の実相に目覚め、欲を自己のため社会のため最大に生かすことが出来る。その時欲は悪ではなく、欲こそ尊い菩薩の願となる。その具体的方法として密教瞑想法がある。

要点は「欲を自己のため社会のため最大に生かすことが出来る」のところです。ここが、実践を経ての知識であるところを、「理趣経」にまつわる空海さんと最澄さんの決裂エピソードでは、なんだか空海さんが気難しい人のように書かれていることがあったりして、そうではないんですよと。そんなとき、少し悲しくなるわけです。
でも、日本の歴史教育の中で、アーサナ、呼吸法、瞑想法をとことんやっていただいたうえで「ね、わかった?」というのもありえないことなのでしょうから、なんだか歴史ドラマ的には男女の恋愛別離のような程度で片付けられてしまいます。こういうことって、実践ヨギにしか伝えられないことかもしれないなぁ。学校では教えてくれないこと。


<88ページ 禅と密教とインド的瞑想 より>
調身・調息・調心とピラミッド型になるのが瞑想の基本である。しかしながら日本の瞑想において、調身と調息にどれだけの努力が払われているであろうか。
 体の鍛練には色々な方法があり、運動神経や筋肉の発達には効果的だが、瞑想には必ずしも適したものとはいえない。ヨーガ体操は頭の先端から足の爪先に至るまで全身にくまなく念を凝らして、心と体の媒介である神経を開発し、脊柱を整え、腹筋を発達させ、肺活量を増大して深く長く力のこもった呼吸を可能にして全身滞りなく身心軽安、まさに瞑想するに理想的な体を作り上げていく。にも拘らずヨーガ体操は俗にヨガと呼ばれ、一般には健康美容法か奇妙なアクロバットの代名詞の如く思われ、仏教者にとっては外道の一派として顧みられなかった。

昭和49年に書かれた本で、後半は沖先生や佐保田先生と同じような言葉で語られています。前半は、僧侶さんとしての言葉なので、そちらがとても貴重。阿息観とか数息観とか、阿字観以前に教わる呼吸法に学ぶところが多かったですが、坐ってみたら、やっぱりその前にはやっぱりもう少し脱力体勢に入れる動きがあったほうがいいな、と思いました。余剰エネルギーがもうすこし少ないほうがいい。なので、坐禅会へ行くなら、1時間くらい歩いていくのをおすすめしたいです。

<99ページ 右と左の表示 より>
 瞑想において、密教もヨーガも右と左には重要な使い分けがなされている。例えば瞑想の基本姿勢の一つである半跏座に坐して手に法界定印を結ぶ時、密教もヨーガも共に右手右足を上にするのを原則とするが、禅宗ではこれとは逆に左を上においている。
(中略)
 また密教では右眼に(ma)字をおいて日となし、左眼に(ta)字を月とし、日月の両眼をもって道場に諸仏の遍満し給えるを見るのであるが(といったあと、ヨーガのイダーとビンガラの説明に展開。ここは割愛)
(中略)禅宗が左を上にするのは伝播途中の中国の影響など種々の理由があるようであるが、密教は左右について独自の表示を展開しているが、ヨーガの伝統を基本としている。

(「ma」字 「ta」字の漢字は旧字で出せませんでした)
わたしが座りやすいと感じる降魔坐は、禅宗のほう。できあがりの形で右左を語る場面が多いですが、組む順番で語ってみると、右が先、が降魔坐なんですね。これは体癖もあると思うのだけど、中国人はこっちのほうが組みやすかったのかも、なんて思います。インドより中国のほうがご近所さんだから、足も短いしぃ、体癖も近いのかも・・・なんてことに思いを馳せてみると、仏像を見るのがめちゃくちゃ楽しくなりますよ。
ちなみに世の仏像はほとんどが吉祥坐ですが、飛鳥時代以前の仏像になると降魔坐遭遇率が上がります。


<120ページ 各位置とその機能 臍 より>
 神秘学の研究家クロード・ブラグドン(Claude Bragdon)氏は、「このセンターをマスターするところのヨーガ行者は、悲しみと病気を取り除くことが出来るといわれ、変革の力を持ち、心身の病を癒すことが出来る」"Yoga For You"と述べている。

「Yoga For You」ってのがとっても素敵で、メモ。


<150ページ ヨーガ体操の活用 木魚座 より>
 結跏趺坐から両ひじで支えながら後ろへ倒れ、首と胸をうんとそらせて頭で支え、両足で足指をつまむ。肺及び脳下垂体、松果腺の活動を強化し、クンダリーの覚醒を促がし、喘息・便秘に効果がある。その形から仏教的に木魚と名づけたが、木魚は魚が昼夜ともに目を覚ましているように怠惰、惰眠を覚醒するものであり、また大衆を集める時に鳴らす道具であった。

この著者さん、おちゃめなんですよ。だってこれ、フツーに魚のポーズだもん。でも、「その形から仏教的に木魚と名づけたが」って! ここはツボでした。


<154ページ 同上 屍のポーズ より>
 チベットでは、骨まで粉々になってしまったと観ずる方法があるようだ。
 僅か三分か五分の間に、驚く程体の疲れを取りさることが出来る。この時眠ってしまっては効果が半減するので眠らぬこと。
 現代社会に生き抜くことの出来る人、それは本当のくつろぎが出来る人であり、現代社会に必要な人、それは生命の尊さを知る人である。
 現代人は仕事にも打ち込めず、遊ぶ時にも無心になれない。その第一の原因は緊張と弛緩の切り換えが明確に出来ないところにある。このポーズに熟達すれば、通勤ラッシュの電車の中で普通人が疲れている間にでも、逆に疲れをとってしまうことが出来る。

「白骨観」よりもさらにこっぱみじんの瞑想法があるとは知りませんでしたが、緊張と弛緩の切り替えスイッチ修練に、ヨガはものすごい効果を発揮するもんだと経験上感じています。特に、バッタのポーズとか弓のポーズを連続して行なうときにそう感じます。


<160ページ 生まれぬ前の自己 より>
 キリスト教では初めに天地創造があり、終りに最後の審判があって、一応直線的時間の上に見る。また一般社会の通念では、現存の社会が先ずあって、そこに某が生まれてきたといい、死ぬ時は現社会の中から某が一人消え去ったと見る。然しそれは傍観者から見たものに過ぎない。主体的事実から言えば、気がついて見ればもう何歳かになっており、そこに見られる社会や人間関係は、既に私の迷いによって執着しててん倒されたものであって、真の自己によって見られた実相の世界ではない。

(てん倒 の「てん」は旧字で出せませんでした)
インドの輪廻の考え方について触れられています。このへんは、野口法蔵さんの本を読むとわかりやすいです。


<189ページ 印の秘義 より>
 両手の指を種々の形に組み合わせ、念を凝らすところの印(或は印契)を、インドではムドラー(Mudra)と呼んできたが、このムドラーの語源ははっきりしていない。中村元博士によれば、古代ペルシャ語でエジプトのことをムドラーヤ(Mudraya)といい、エジプト人が印象を用いていたので、古代ペルシャ人が印象のことをエジプト、即ちムドラー(ヤ)と呼んだのであろう、それはちょうど英語でチャイナというと陶器のことを意味するのと同様である、と述べている。

へぇ〜! な雑学メモですが、そういうときにやっぱり登場する中村元博士。またもやアイドル登場。


<200ページ 経行の種類 より>
 一足下すごとに一陀羅尼を唱える。
 禅宗の曹洞の方では一歩二呼吸で一足長進むという極めてゆっくりした歩き方であるが臨済の方は逆にトットと速く歩く。

チベット速度計でいうと、高橋Qちゃん級。いろいろなスピードがあるのですね。


<227ページ 瞑想法の構造 影現法 より>
 俗に意気投合という言葉があるが、これは相手と自分とがある意味では入我我入したことになる。人間関係に好き嫌いが甚だしく融合しにくい人も、この瞑想法の習得によって相手の人に親近感を覚えるようになり、初対面の人にも十年の知己の如き感じを互いに抱くようになる。本来対立というものは存在しない。バイブルに有名な「汝の敵を愛せよ」という言葉がある。敵を愛することは容易ではない。然し実は相手を敵とする自分の心の中に既に敵がある。この瞑想法は恩讐を越え、一切の対立を越えた境界を開顕してくれる。

そう、修練でもし「得たい」と思ってしまってよいのなら、得たいのはこの実践知識。


<238ページ 瞑想法の構造 三昧と知慧 より>
 密教ではいたずらに雑念を抑える方に力を用いず、念を転用して組織化された順序に随って心静かに真言を誦え、手に印を結び、観念を凝らす時、自ずから三昧を体得するように出来ているのである。雑草は抜いても抜いてもその後から生えてくる。
「雑草を取ってそのまま肥しかな」
 抜いた雑草は寧ろ大木の肥しになる。

「雑草を取ってそのまま肥しかな」って、いいですよね。


<252ページ 密教の正意 正意の先取り より>
 密教の精神集中位置やヨーガのチャクラを、一応身体上の神経叢や器官と相応せしめてはいるが、チャクラは身体そのもの(Sthula 粗大)ではなく、微細身(Suksma)に属するものであり、また西洋医学は medical science といわれるように科学の立場をとるものであって、宗教とは次元を異にするものである。そして密教の行法が医学的にも心身を改造出来るシステムになっているからといっても、スポーツの如くただ訓練を重ねていれば、自力で解脱し得るとはいっていないのである。
 瞑想の基本的な修練をせずに、ただ自力的に身心の部分的なチャクラや能力の開発を主目的として実習するならば、身心のバランスを失って自分でコントロール出来なくなるような危険に陥ることや、また体力を消耗することがある。

クンダリーニ・ヨーガやチャクラ開発に対してよく語られる警告を、この著者さんも語られています。あまり自分の言葉でこの点について語ってきませんでしたが、ここでの著者さんの言葉を借りて少し書いてみます。ここで「微細身」という言葉が使われていますが、感覚的に本当に微細なもの、瞬間的なものであると思います。そして、そんなに特別視することでもないと思います。風力や熱力に押されるようにエネルギッシュになる瞬間は、このようなこと以外にも、生活の中のいろいろなタイミングで現れるものだと感じています。いろいろなところでそのイメージを表現したものを見ていますが、技術・手法書物からそれを見るよりも、アウトプットとして表現された日本の古きよき仏教建築にそれを求め、感じるほうが、健やかで明るく、文化的なアプローチではないかな、なんて思っています。「集中」を求めるとパワフルに進みたくなる気持ち、わからなくもないのですが、集中は感謝とくつろぎのスタンスの中にあると、そんなふうに思います。



かなり長い紹介になりました。今回はわりと日々感じることを引っ張り出される感が強く、でもあまりいやな引っ張り出され方ではなくて、とてもあたたかい気持ちで読んで、紹介できたのではないかな、と思います。
この場でこれまでに何冊も本について書いて来ましたが、この本はなんだかインド・チベット・中国・日本の温かい風と和を感じるような、そんな素敵な本でした。すべての人が読んですぐそのように感じられるかはわかりませんが、今のわたしにとっては、そんな本でした。

密教瞑想法
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