うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨーガ禅道話 佐保田鶴治 著

続 ヨーガ禅道話
図書館で借りました。1982年の本で、佐保田博士のヨーガアシラムでの講話集。続編も読んだので後日感想を書きますね。写真は、表紙の写真を撮り忘れて返却してしまったので、「日本ヨーガ禅道院」のサイトから拝借させていただきました。とってもチャーミングなジャージ姿と笑顔に魅せられて(笑)。
うちこははじめ、「ヨーガ・スートラ」の訳者さんとして佐保田博士を知ったので、めちゃくちゃアカデミックな教授! というイメージだったのですが、先に紹介した「般若心経の真実」でいっきにそのイメージが崩れたのをきっかけに、口語調で書かれた本のほうに興味がわいてきました。


この本は、あとがきから引用しますが

 昭和四十八年に現在のヨーガアシラムが建ってから、いつの頃からか体操の始めや勤行の途中で、私はその時その時の思いつきのテーマで話をすることを始めました。
 内心は時間稼ぎのようなつもりで話していた訳で、時とすると体操の時間に大きく食い込むこともあり、参会者に迷惑をかけるのではないかと心配しておりました。ところが内々聞いて見ると、私の話に興味を持っている人もあるし、私の話がないと道場に来ない、こういう人もあるということを聞きました。それで私も迷惑にもならんのだなあと思って話を続けました。

というわけで、講話集。ヨーガの教典は、いきなり読むにはやっぱり敷居が高い。まずはこんなふうにやさしい口調で語られる博士のことばに触れていくのが、おすすめのアプローチ。アートマンの解説のところとかは、難易度高いなぁと思いますが、その他はヨーガに興味が無くても面白く読めると思います。


そして、アートマンの解説が出てくる「神霊教と神秘教」の章は、眼からウロコ。それまでの流れから一転して、しっかりと教授モード。かなり興味深いお話をされています。

今日は長くなりますが、これでもほんの一部。この本は、いまなら中古でお手ごろな価格で入手できますから、「日本人ヨギなら読んでおきたい講話本」としておすすめする意味も込めて、メモしたかったところをご紹介します。最後には、道元さんも登場しますよ。

<44ページ 体の神秘さと偉大さ より>
 ヨーガで大切なことはわれわれ現に生きているお互いのこの体そのものが非常に神秘なもの非常に微細なものであって、非常に大きな力を持っているものだっていうことを充分よく理解することです。ところが今日は、さっき言いましたように学問の世の中、科学の世の中なんです。科学というものは物を分析していくんであって全体を一つの有機体として理解することはできないのです。だんだん分割していってしまうと、有機体ではなくなってしまって、無機物になってしまうんです。だから医学でとり扱っているものは無機物だと言ってもいい。実験には生きているかえるなどを解剖しても出て来たのはみんな死んだかえるなんです。部分的なものなんですね。かえるの足を一本ちぎってしまえば、足は死んだ足なんですね。そういう研究しか出来ないんです。
 科学というものはそういうものなんです。決してつまらんというのではないけれども、科学は偉大だけれどもいくら偉大であっても生きているという事実をそのままそっくりつかむことは出来ない。これはもう科学の方法じゃなくして別の能力でつかむより仕方ないですね。われわれの方ではそういうつかむ能力のことを勘といっている。あの人は勘がいいというのは、そういうことをいうんです。全体としてつかむんです。

「生きているという事実をそのままそっくりつかむ」という表現が、すごく素敵。沖正弘さんが使うことばのニュアンスと似たものを感じます。

<47ページ 体の神秘さと偉大さ より>
 自分の体がちゃんと自分の体のことを教えてくれる。これは学問もなにもいらんのです。また技術もいらんのです。自然に体が体のことを教えてくれる。手取り早い例をあげると、ヨーガの体操を毎日、いろいろとやっておりますと、その時の状態に応じて非常にやりづらい体操があります。これは体が教えてくれているんです。この体操をやればお前の欠陥はだんだんとれていくんだからこれをやりなさいということだと思ったらいいですね。非常にやりにくい体操、これはやりにくいから止めておこうかというやり方ではヨーガをやっても体はあまりよくならない。こいつはやりにくいから、こいつの方を精出してやろうという人は、はじめてヨーガによって体は健康になるんですね。体が体のことを教えてくれるんです。
(中略)直接これだと口では教えてくれないし、言葉では教えてはくれない。痛いところ苦しいところがあることで、ここだってことを教えてくれるんですね。

いまひとつ嬉々と愛せないアーサナにも、根気よく取り組まなきゃ。(自戒)

<52ページ 身体を尊敬せよ より>
ヨーガでは昔から節食を尊びます。食事を節するのですね。日本では腹八分目といいますが、インドでは腹六分目というんですね。腹六分目といってどれくらい胃袋にたまったか計ることは出来ませんが、飢餓感が大体無くなった程度でしょう。自分の気持で腹いっぱいで、起きているのはつらいから寝ていようかというほど食べるのは体を虐待しているんであって、決して体をいたわっているんじゃないのです。だから体はまず腹六分目くらいのところを基準にして食事をするという、これが良いわけです。これが体を大事にする、体を尊敬するということなんですね。
(中略)今度日本語に翻訳して注釈をつけて、そして一巻の本にして近いうちに出すことになっている二冊のハタ・ヨーガ教典(『ヨーガ根本教典』)を見ますと、そのどちらにも節食のことが書いてあるんです。節食をしろと書いてあるんです。断食をしろとは書いてない。断食しろと一方の本では書いてないし、一方の本では、断食することはヨーガの禁止事項になっているんですね。これは意外だったんですよ。

うちこは週末、夜までは「飢餓感が大体無くなった程度」の時間にすることで(朝、昼カフェオレ各1杯とか)で胃をお休みさせているのですが、そうすると、なんか心が忙しくない感じがする。食べて消化するのは、すごいエネルギーなんだな、と気づきます。


<63ページ 神霊教と神秘教 より>
宗教学の方では、宗教とは何ぞやということについてはいろいろ詳しい研究をしておられるんですが、それはさて置いて、私は本当の宗教というのには、二つの型がある、本当の宗教には二つのタイプがあると、こう考えます。二つの型というのは、一つは神霊教という型で、その外に神秘教という型がある。これは私の考え方なんです。
 神霊教といいますのは自分の外に居られる神様を信仰する。その神様を信仰して、そしていろいろ神様に対してお祭りをするとかお祈りをするとか、或いはまた祈願をするとかというふうに、対象が自分の外におられる神様であるという信仰の形態ですね。これを私は神霊教といっています。そしてこれには一神教の形と多神教の形とがあります。宇宙には最高唯一の神様があってその他には神様はいらっしゃらないという考え方は一神教ですね。そうじゃなくて、その偉い神様、われわれから見ると絶対の神様といっていいような偉大な神様は宇宙に沢山おられる。或いは無数におられる。そういうふうに考えるのは多神教ですね。これは両方とも神霊教なんです。神霊教の型なんですね。ですからキリスト教一神教だと、こういわれるとしたらキリスト教は神霊教に入るわけです。
 それから神秘教というのはどういう宗教かといいますとね、これは神様、宇宙絶対の神様は外界におられるんではない、われわれのなかにおられるんだという考え方です。自分のなかにおられる神様がすなわち宇宙の絶対の神様なんだと、こういう考え方をするのが神秘教だと私は言うんです。英語ではミスティシズムと言っています。この神秘教にもまたいくつかの型がある。それは一人一人のなかにおられる神様はそれ自身皆独立で絶対である。こういう考え方ですね。それで神秘教では、われわれが普通霊魂といっているのが神様なんです。われわれが霊魂といい、或いは真我といい、本当の自分といっているのが神様なんです。われわれが一般的に我、エゴといっているのは神様でも何でもないんです。これはただ影にすぎないもので、そういう自我っていうのは、まあつまらんものなんですね。一つの観念にすぎないのです。われわれが普通、おれが、おれがといっているのはそんな立派なものでも何でもないのです。しかしその自我の奥には本当に立派な神様がいらっしゃる。これは本当の自分である。だから真我という。こういうふうに考えるのが神秘教なんです。
(中略)神霊教のほうは外交的なんです。外向きの宗教です。神秘教は内向的、自分のなかの方に向かって求めていく、そこでこれは一霊教というよりは汎紙教という方がよいでしょう。
 宗教には、その他にまだ咒法っていうのがありますが、それは今は除けておきます。
 それで本当の宗教は神霊教と神秘教とであります。神霊教という方は神様をどこまでも自分の外に立てている。そしてその神様に対して信仰する、お祈りする、儀式をするってのがこれ神霊教です。神秘教というのは神を自分のなかに求める。ですからこれにはですね、儀式とかそういうものは無いわけですね。そういうものが無い代わりに、瞑想があるわけですね、宗教上のメディテイションというのは内向的な態度なんです。

※このあとの展開要約
神道は儀式の宗教で神霊教、キリスト教と仏教は両方あるけどキリスト教は外向傾向が強く、仏教は内向傾向が強い。真言なんかは神霊教の方も形の上ではあり、禅は内向=瞑想むき出し、といったふうに私は考える、という例が続きます。
(中略)

ヨーガの宗教はどうかというと、本質的には神秘教なんです。宇宙の本体、つまり宇宙を作り宇宙を維持し、宇宙を表わす、そいういう偉大な力、それを信仰します。

面白い解説でしょ。
うちこは神道は絶妙に両方がミックスされているなぁと思ったりしたのですが、ちょっとこの内容を読んで解釈しなおしてみました。以前に神道の本で、年末に福袋を売ったり安売りをしたりするのは、みんなが喜んで笑うことで神様がよろこぶという考えから、というのを読んだとき、「喜び、笑顔を共有する」という心意気に、外交的なものを感じました。でも、多神教どころか、もうめちゃくちゃフリーダム! みたいな明るさがあって、素敵だなと思います。

<69ページ 神霊教と神秘教 より>
インドでは個々人の魂をアートマンといいますが、宇宙の魂もアートマンというのですね、むつかしいのは宇宙的アートマン別名ブラフマンとわれわれのアートマンの関係は一番むつかしいのですね。そこでそれをインドでは不一不二という。これは理屈に合わない感じなんですけどね。不一というのは一つではないということです。一つでなかったら別ではないかというと、別のものでもないというのです。そんなことはわれわれの普通の考え方では成り立たないんですよ。そうでしょう? 二つのものなら一つのものではないというと、二つのものでもないというわけです。AとBとが違っていながら、違っていないんだというんです。われわれの普通のロジックでは不一ならばニでなければならない。不二ならば一つでなければならない。こういうことになるわけですが、そこが神秘的な世界ではそういう不一不二というような理屈に合わないことがはっきり納得いくんですね、そういう不一不二というような理屈に合わないことがはっきりわかる。不一不二という関係が有り得るんだということがはっきりわかる。そういうことなんです。それは宗教の論理ですから、われわれが日常生活をしていく場合の理論とは違うんですね。宗教の世界ではちゃんとそれで割り切れるんです。これは仏教その他の高級な宗教はみなそういう立場に立っています。
 インドの場合はわれわれの魂のことをアートマンと言うんですね、これは自我ということです。エゴとは別の真実の自我、われわれの魂ということです。アートマンというのにはパラマ・アートマンとアパラ・アートマンとがある。パラマ・アートマンというのは最高のアートマン、アパラ・アートマンはそれほど高くないアートマンということです。後の方のアートマンはわれわれの魂です。パラマ・アートマンの方は宇宙霊、宇宙最高のアートマンというので、別の言葉でブラフマン、梵というのです。だからわれわれは、われわれの魂は梵と一つでもあるし別でもある。一方では独立をしておるし一方では梵と一体なんだと、こういうのがインドの考え方なんです。こういうふうな理屈に合わない関係でわれわれは汎神教というものを考えます。
 そこでわれわれがこのブラフマン、宇宙最高の神様といいますか、魂っていいますか、そういうものに到達しようと思ったら、神霊教でいくらやっても到達出来ないんです。神秘教でやるより仕方ない。自分のなかに入ることによってはじめて出くわすことができる。だから自分が自分のなかに入って自分の魂を求めるんです。自分の魂を求める。これが瞑想なんですよ。魂を求めていく、そして魂をつかむことが出来たら同時に宇宙霊であるブラフマンをつかんだことになる。従って自分自身が宇宙の力になってしまう。宇宙魂と一緒になってしまう、まあこういうふうに考えます、これを解脱と言っているんです。これが高い宗教の在り方なんですね、インドにおける高い宗教をヴェーダーンタと言っていますが、この高い宗教の考え方の真髄はこれなんです。

「神秘的な世界ではそういう不一不二というような理屈に合わないことがはっきり納得いくんですね」というところは、ラマナ・マハルシ師の本などがよい手引きではないかと思います。
うちこは、インドで発祥した「ゼロ」の概念の解説で「無いという状態が"ある"」という表現に触れてから、このへんのことがわかりやすくなりました。「無いものは無い」のではなく、「無いことが、ある」んです。般若心経の教えに、そのようなことを感じさせられます。

<101ページ カルマ・ヨーガ より>
 そこで考えてみると、世の中で活動し、働いている人に二種類の人があります。カルマ・ヨーガ型の人と、そうでない人があるでしょう。カルマ・ヨーガ型でない人は欲の皮が突張って、仕事をするよりもその仕事をした結果どれだけもうかるのかのほうが、先に立ちます。ところがカルマ・ヨーガ型の人はそうではありません。月給は安いよりは高いほうがいいでしょうが、あまりそのことは考えず、とにかく自分のやっている仕事がおもしろくて仕事に打ち込み、生きがいを感じる人たちです。ここもだいぶそういう人がおられますが、その人たちはカルマ・ヨーガをやっているのですね。

俗世の道場は、いいものだよと思います。「いまこの時代に生まれてめぐり会った道場」、というリアリティがあるから。

<112ページ ゼロ人称を掴む より>
(佐保田博士が師と仰ぐ「岡田寅ニ郎」氏とのエピソード)
「どうだ、俺のこの腹を押して見ィ」と言われて、大きな腹を、いくら押しても手が入らない。ところが一寸緩めてくれるとスーと入る。軽く「エィ」といわれると、グーと入っていた手がいっぺんに押し出されてしまいます。そういう面白いことをやって下さいました。
 最後に人差し指と親指で輪を作って「三人称と二人称と一人称の奥にゼロ人称があるんだ」と言われました。一人称とは俺、二人称はお前、三人称は彼ですね。その奥にゼロ人称があるとおっしゃる。何のことやら判らなかったです。夢みたいでね。その後ゼロということが少しずつ判って来ました。仏教ではゼロを空と言います。空とは何かというと禅宗の坊さんは判ったような判らんような返事をされる方が多いですね。本当に悟ったのかどうか怪しいです。ゼロは何処にあるかというと、自分です。自分の外には無い。自分と言ってる間は本当の自分ではない。一人称をぶち破った所にゼロ人称がある。このゼロ人称が私の基礎ですね。自分の存在の本元であると岡田先生は言われたと思います。

これ、すごくないですか。ゼロ人称。うちこはこの部分、感動しました。

<115ページ ゼロ人称を掴む より>
 今俺が生きている、俺の周囲に環境がちゃんと出来ておる。こういうものは時間内の存在ですから幻です。しかし、俺は厳然としてなければならない。厳然としてあるところの俺は時間外にあるんだと、それが私の根本であって、その時間を超えたゼロ人称の上に一人称がある。二人称があり、三人称がある。時間内の自分の存在がある。瞑想をする時はそれを考えるんです。

時間の概念(いや、これは想念!)にとらわれてしまうのは、うちこがぜんぜんダメなところ。「瞑想をする時はそれを考えるんです」といわれて、こりゃ永遠の宿題だなぁと思いました。

<164ページ 瞑想の本質と実際 より>
道元さんの有名な言葉に、「仏法を習ふといふは我を忘るるなり」という一文があります。仏教ではなく、仏法です。私は仏教という言葉がきらいで、仏教などと言う人には仏さんの教えがわかるはずはないと思っています。その仏法をくり返し修行することは自分を忘れることだと言っておられるのですね。自分を忘れる、自我をなくすことが修行というわけです。この一文の後にはさらに「我を忘るるといふは万法に証せらるるなり」と続きます。これを続けて読むと、「仏法を習ふといふは我を忘るるなり。我を忘るるといふは万法に証せらるるなり」で、我を忘れることはヨーガ・スートラの思想と一致します。
(中略)
「万法に証せらるるなり」「万法、我を証するなり」これは非常におもしろい言葉です。すべてのものが自分をまじまじと見るということは、自分もまたまじまじと見るということにもなります。このように対象と自分が区別されていない状態のことを「証」と言います。
(中略)
自我とは真我の影ですね。自我と密接に結びついている妄念、つまらない心を自我から引き離していくと、自我は自我のもとの姿である真我にだんだん近づいていきます。

「すべてのものが自分をまじまじと見る」とか、このへんの言い換えが、佐保田博士のハートウォーミングな魅力。中村元先生と似たものを感じます。うちこは、昭和のヨガ古典の表現が好きなんだなぁ。


うちこがもしこの講話を生で聴いていたとすると、「神霊教と神秘教」のところはまずついていけなかっただろうなぁ。本にしてくれていて、ありがたいなぁと思いました。


▼おまけ 佐保田先生の本
ヨーガ根本教典
続・ヨーガ根本教典
ウパニシャッドからヨーガへ
ヨーガ(NHKやさしい健康体操)
般若心経の真実

ヨーガ禅道話
ヨーガ禅道話
posted with amazlet at 09.07.30
佐保田 鶴治
人文書院
売り上げランキング: 35886
おすすめ度の平均: 5.0
5 ヨーガの叡智