うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

生きている宗教の発見―だれでも悟り救われる沖ヨガ修行法 沖正弘 著

生きている宗教の発見
昭和60年の出版で、沖先生ご存命中に自ら執筆、監修された遺言集的な本だそうです。沖先生の本の中では新らしいほうなので、新書で手に入るのかと思いきや、もう中古でしかないんですね。まだ良心的な価格で手に入りますので、今日ここに紹介する内容を見て読みたいと思った人は、いま入手するのがよいかもしれません。


沖先生の本は「奉仕の精神エネルギーが弱ったとき」「仏性が弱ってきたとき」に読み返したいものばかり。ここでこうして紹介を書きながら内容を読み直すことも、とてもよい栄養になります。
特に、日々の仕事の場面で頻発する、誰も悪者にする気はない(ニュートラル)、興味を置き換えた同情への対応は無駄に消耗する(排除)、という状況でバランスしながらやっているとき。「なにも信じない、なにも疑わない。ただ、確かめるだけ」のとき。
そんなときに読み返したいと思って頭に浮かぶのは、やっぱり沖先生の言葉なんですよね。

前半は沖先生の言葉、後半には「付章」「付記」があり、沖先生の近くにいらしたお弟子さんが書かれたもののようです。このへんがけっこう適当なところも、いつもながら好きです。読解力まかせの、おまかせの境地、なんですよね。

ではではさっそく引用紹介、いきます。

<8ページ まえがき 救われる生き方の発見 より>
自分の中の自然の働き、即ち生命の働きが高まるほど他に対する愛の心は自然に深くなってくるのである。なぜなら生命の働きは宇宙の働きであり、宇宙の働きは自然の働きであり、自然の働きは生かし合いの働きであるから、自然に近づくほど生かし合いの自然心、すなわち愛の心が強くなり、自他の区別などなくなってしまうものである。私はこの愛の生き方を教えるのが宗教の使命であると信じている。

「自他の区別をする心の源」を確かめる作業をいとわないエネルギーというのが、人として正しい仕事エネルギーであって、ましてや区別の主人公になってはいけない。修行だ。

<26ページ 真の宗教の実践で救われの道を より>
今までに繰り返しのべてきたように、私は、各人の救われる唯一の道は真実の宗教を各人自身が持つこと、即ち「自分の生き方を悟る」であると確信しています。私達は悟りを実行して自己と生活を聖化することで救われるのですが、俗生活をしなければならない私達にとって、これは大変難しいことです。しかし、必ず人間は救われるのです。不可能ではありません。エゴを生み出すものを放下して真知を体得し、それを聖なる愛として他に捧げる生き方をすることです。

「エゴを生み出すもの」「自他の区別」という魔物は、あちこちに潜んでいます。

<29ページ オッタマ僧正、ガンジー聖師からヨガの真髄を学ぶ より>
私に、ヨガはおシャカ様が歩まれた道であったこと、また、ヨガとは何かということを教えてくださったのはビルマ独立運動の父といわれているオッタマ僧正です。そのとき、まだ私は十歳位でしたがオッタマ僧正は私に、自分で良いと思うこと、人から聞いてよいと思って行うことがヨガになるのだと教えてくださいました。
 さらに私の青年期に、オッタマ僧正の紹介でインドでガンジー聖師にお会いすることができました。初めて訪ねてきた日本の青年ということで、とてもかわいがってくださいました。ガンジー聖師もオッタマ僧正と同様に、「シャカやキリストなどの諸聖人はヨガを実行してエンライト(悟り)されたのだ。私もヨガを実行している」といわれました。そうしてヨガや宗教を学ぶことは本を読むことではなくて、教えを実行することである。だから、ヨガを学びたかったら、私がどういう生活法をしているかを見て学びなさいといわれ、ガンジー聖師の室の近いところに室をくださいました。
 私はガンジー聖師がどういう生活をされるか観察し、その生活の真似をしました。そして、わかったことは、ヨガとはバランスのとれた生き方をすることでした。ガンジー聖師は動いたあとは静かに、暖めたあとは冷やすというように、バランスをとった生活をされていました。仏教の教えは中道の教えで、ガンジー聖師はそれをそのまま自分の生活法とされていることがわかりました。
 そのとき、ガンジー聖師は私に、「仏教を通じてヨガを勉強しようと思っても、今の仏教は理屈ばかりにはしってヨガ行法的な教えは何もないといってよい。ヨガ行法的なことを実行しているのはジャイナ教であるから、ジャイナ教を勉強して、平和思想家になることができたのです」と話してくださいました。

沖先生の時代と現在が違うのは、情報の届き方に「イメージ」を超える「リアル」があって、沖先生が「聖師」といって尊敬する人でも、自分の信じる情報を得る術のバリエーションが広がったこと。わたし「この時代のガンジーさんの暮らしを実際に見た沖先生の記述」として読みました。

<32ページ 言行一致させ真の奉仕活動を展開する より>
私が痛切に感じたことがあります。それは、自分が行じなくてもよい立場ならば、いくらでも美辞麗句を並べたてることができるということです。多くの宗教家は、みんなそうなのです。私は自分で実際にやってみなさいといいたいのです。人の心の裏というものは、どのくらい醜くかつ弱いものであるかがよくわかりました。ですから私は、一切美辞麗句を並べ立てず、実際に行じる生活者になる決意をしたわけです。
 同時に奉仕を受ける相手の問題についても感じることがありました。それはいくらこちらが奉仕しているつもりでもそれを奉仕の心として受けとる人間が少ないということです。奉仕されることが当然と思い、さらにもっとほしいとさえ思うようです。ですから社会福祉、奉仕活動は、乞食根性と依頼心を助長させることにもなりかねません。ですから助けるにも、助け方があります。相手が自ら立ち、自分から救われる努力をするのだという気持ちをもっているもの以外は助けてはならないのだと痛感しました。

「自分から救われる努力をするのだという気持ちをもっているもの以外は助けてはならない」と言ってくださる人って、昨今なかなかおりません。泣けてきます。

<43ページ 冥想行法こそ真のヨガ行法 より>
悟るということは、ものごとの本当のことがはっきりわかることです。感謝すべきことには感謝し、懺悔すべきことには懺悔し、当然なことを当然として感じ、考え、行うことができ、対処することができるようになることです。

そう。ドレッシングを冷蔵庫にそっと置いておくようなこと。すぱっと分離してビックリ、なところも似てる。


<66ページ 現代医学の盲点 より>
(ある医師の体験談)
「さらに私は、今の病院や医師たちに最も欠けているのもの、それが心の問題であることに気付かせていただきました。医者も家族も患者自身も、病人は大事にするものだと思っています。
病人の生命は大事にしなければなりませんが、依頼心を持たせてはならないことに気付きました。道場には大勢の病人がいるのに病院のような雰囲気が全然ない。ここでは自分が病人であることを忘れることができるのです。
 今の医療制度には問題点が数多くあります。特に個人病院では特別室があって高い料金をとります。特別室に入ると特によい薬や治療をうけられ、面倒をみてもらえるようになっています。しかし、薬は高価だから効くのではなく、その人に合うかどうかが問題です。また、特別室の患者に対しては遠慮があるのか、ついわがままを許してしまいます。少しおかしなものを食べても、運動が不足していても、見て見ぬふりをしてしまうことがあります。このように特別室の患者は、本当は大事にされていないのです。」

「ついわがままを許す」「見て見ぬふり」をしたくなる弱さに対応する場所は、ビジネスになっていたらまだマシだと思う。そうではない場面のほうが問題。

<78ページ 心身を清らかにの教えについて より>
沖ヨガでいう栄養とは摂取と排泄の両方が完全であることです。きれいな血をつくる成分を持つものが「栄養」です。体の面では食物と呼吸であり、心の面では知識です。
 ところが、多くの人はこの栄養の意味を取り違えています。たとえば玄米と白米とどちらが栄養がありますかとか、肉と野菜はどちらを食べるべきですかなどと尋ねる人が大勢います。しかし、何が栄養になるものであるかは、自己発見する以外に方法はないのです。一人一人の気質・体質は違いますし、環境も生活も違います。ですからそれぞれの人に適したもの、合うものも一人一人違ってくるのです。私が、私に適し、合い、必要なものを食べたときに、私にふさわしい血がつくられます。私にふさわしい血が私にとってのきれいな血であり、私にふさわしくない血は私にとって汚れた血であり、病因となるものです。
 あなたは、あなた自身を教育するのに一番ふさわしいものを選び、あなたを最上に生かし得る生き方を自分にさせるべきです。私は沖正弘として生かさせていただいているのですから、私らしい個性が開発されてくるように、そうして私にしかできない考え方や感じ方、行い方をして生きるよう努力をしています。
 この目的のためには、自分に一番ふさわしい人間性を自分で身につけうる知識を頭の中に入れる努力が必要です。頭を自分にふさわしい状態に整えておいて、今度は実行につぐ実行と体験を重ねていくと、自分だけの考え方や感じ方、行い方が自然に生まれてくるのです。これが「信」であると沖ヨガでは教えています。
 自分の信を発見しないと自分の生き方ができないので、生きがいを感じることができません。他人の生き方を真似したり、その考え方の奴隷になるのではなく、自分が自分の主人公としての生き方をするのです。自分が主人公にならないかぎり自分としての仕事はできないし、自分が自分の仕事そのものになりきる三昧法悦の生き方もできません。そのまま楽しみとなり、遊びとなり、喜びの生き方になったとき、初めて働きがい(働く喜び)が生まれてくるのです。これが清らかな生活です。楽しい生き方をすると血もきれいになります。

「私にしかできない考え方や感じ方、行い方をして生きるよう努力」と、「実行につぐ実行と体験を重ねていく」ことが必ずセットで書かれているところが、実践哲学の沖イズム。甘いだけではない励まし方。

<89ページ ダラーナ より>
意識のほうでこうしようと思っても、無意識のほうで妨害すれば、心は分裂してしまいます。人間の意識層の力は五パーセントか十パーセントぐらいしかありません。あとの九十パーセントは各無意識層が支配しています。ですから、意識層と全無意識層との内容を一つにすることが大切で、このためには意識的生活をして知行合一できる練習が必要です。
 意識層の考え方というものはまだ身についていない考え方のことです。読んだり聞いたりした意識的なものは体で体験しているうちに体も同じ考え方をするようになるのです。だからダラーナには「繰り返す」の意味もあります。
(中略)
 体の統一とは、一つのことをやるときそのことを全身でやることです。目だけで見るのではなくて全身で見る。耳だけで聞くのではなくて全身で聞く。手だけで持つのではなくて全身で持つ。これを肉体的統一というのです。

全身で見る。全身で聞く。全身で持つ。端的なパーツを駆使して得たバイアスのかかった意識には、すごく危険なものがある、という戒め。

<98ページ ヨガは唯一真実の聖的密教 より>
 仏教の中の、禅宗天台宗真言宗などは本来密教ですが、実際には理屈と儀式の方が多く、俗的なものになってしまい、自分が体験体得して実証するという密教的性格を失っています。
 私は「密教」であるヨガに接して本当によかったと思っています。自分が、何が本当であるかを実際に体験体得するために、意識的に体験することを「行」といいます。世の中には、事実を自ら確かめてみもせずにわかったつもりになり、否定したり肯定したりする無責任な言行が九十九パーセントを占め、まさに無責任な生き方が横行していますが、これは嘘の世界です。
 本当のことを知るためには、実際に自分の目で見、耳で聞き、手で触れ、自分の頭で考えてみることが必要です。これを「冷暖自知」するといいます。私がそういう生活に入ってから、だんだんにわかってきたことは、世の中にはあまりにも嘘事が多すぎるということです。しかも、その嘘事がいかにも本当のことであるかのように思われていることが多く、しかもそれを本当のものに見せようとして、法律で保護するという誤りを犯しています。法律の目的は正しさを守る為であるはずですが、その逆になっているのは俗界の都合を守るためのものとなっているからです。
 ヨガという特別なものが存在するのではありません。すべてのものの「自然性」即ち当然あるべき姿を追求し、それを実現するために、とらわれず、こだわらず、ひっかからず、何が本当であるかという事実をつかまえ、それを行うのが密教であるヨガなのです。

「法律で保護するという誤り」への示唆は、今この時代、まさにぐっと刺さってくる。

<100ページ ヨガの神は生命そのものである より>
 神であるところの生命は、その能力が最高に発揮できる状態のとき、一番に喜んでくださいます。生命が喜んでくださるためには、自然法則に適応した生き方をしなければなりません。「生命の働き」は、プラスとマイナスの働きが統一されたとき最もよく働きます。ヨガ行法はこのことを教えるものです。

非常に東洋人らしい一説。

<115ページ 信心 より>
環境が悪いことを理由にする人がいますが、その環境を自分の味方にできないような弱さが自分にあったということを問題にすべきです。

井本整体の本にあった、「避けて通れないストレスならば、それを受け流せるように自分を変えて、ストレスに耐えられるだけの体力を身につけることが大切です」という教えとまさに重なったところ。

<121ページ エゴと愛 より>
 自分に都合の良いようにしてくれる人や、自分の都合だけで何かに執着するのは、エゴによる愛です。本当の愛は自利利他を一つにしなければいけないということを、子供の教育で特に教えなければならないと思います。
 自分のよろこびと他人のよろこびが、一つになっている愛のことを慈悲といいます。私は愛というよりも、慈悲という言葉の方が、日本人にはわかりやすいのではないかと思っています。互いに一緒に進化し、一緒に幸福になろうという心を慈悲心というのです。エゴに基づいた愛を、普通の言葉でいえばわがままの愛といえます。わがままの心ですから、他に対する感謝の心が一切起こってきません。自己本位の心と生き方が、社会的な問題をいろいろと生むのです。

「感謝の心がない」という状況を、まず見極める。沖先生が「救ってはいけない」という見極めの極意が、ここにある気がします。

<150ページ 仕事も家庭も一つの学びの場 より>
私達は生きることを単純に考え過ぎてています。会社を会社と思い、家庭を家庭と思うから悩みが生じるのです。「仕事と家庭が両立しない」とか「山奥へ行かなければ解放されない」などの悩みは、生活をいくつかに分けて考える狭い心から起こります。家庭も会社もすべてを一つにしたものが人生なのですから、もっと広い生き方を考え実行していただきたいと思います。
 それには、仕事そのものを生活に、趣味に、遊びにすればよいのです。どうして二つに分ける必要があるのでしょうか。生きることに関してすべてのものがお互いに協力し合わねばならないのです。家庭だけが特別なものとして存在するのではありません。

そう。よく「両立させる」などという表現を聞きますが、なにも二つではないですね。一日は、24時間もありますからね。

<162ページ 病人にも合掌と捧げる生活を より>
口は食べるときには自分のために動かしますが、話すときは他人のための口となります。他人を喜ばせるためにも預かっている口なのです。顔も見てくださる人々のために預かっているのです。聞く人と見る人にいつも良い気分になっていただけるように、そういう言葉を語り、笑顔を見せることも教えました。人には誰にもそういう責任があるのです。

口さんを、もっとプロデュースしていかなくては、と。目からウロコの教え。

<194ページ 親の資格 より>
「親孝行するにはどうしたらよいか」と聞かれれば、「親から拝まれる子供になることです。親に喜びと安心感を与える子供になることです。こんなに素晴らしい子供を産ませていただいてよかった、育てさせていただいたかいがあった、と思われるような子になることです。親から尊敬されるような子供になることが一番の親孝行です」と私は答えます。

産まれてきてしまった以上は、法的に絶縁という制度がない以上、あきらめるしかないのです。あきらめたうえで、どう生きるか、ね。

<252ページ 付章 なぜ沖導師を理解できないか 生き方で道を説く人 より>
沖導師は本当の救い方、救われ方を実践しておられます。その証拠に、心を変えようとしない限り、本当の指導はされません。俗人の愚かな人は、自分にとって都合のよい俗的なものを見ないと信用もせず、やる気にもなりません。それで万止むを得ず、ときどきキリストがなされたと同じような奇跡的なことをなさる場合もありますが、これは本人にやる気をおこさせるためであり、決して正しいことではないと、導師ご自身がいっておられます。清らかな方が俗人を導くことはたいへんなことだと思います。普通人は心ではいけないと思いながらも、生きていくためといって金の方に心を動かしてしまいます。導師が「生きることは苦しみとの戦いだ。だがこの戦いが心を浄化し、生活を聖化してくれる尊い働きなのである」といわれますが、生きる苦しみにも俗的と聖的の別があるわけです。

せめて、「聖的の別」の比重を増やしていきたいもの。

<267ページ 付章 基本原則をすべての専門家に教えられる(超えた人) 他から求められる一方の導師 より>
すべては自然のままでなければならない、ということが導師の教えです。普通は、自分の方から先に活動の拠点をつくりますが、導師の場合は、自分の方でつくることは否定されています。道場は多くのものを正し養うために仕方なくつくられたのです。自然にそうなるものは良いが、不自然な形は必ず潰れる。いかに偽りをカバーするかで多くの人は大変な苦労をしているようです。
 沖導師が、自分自身では充分にその力を持っておられながらも大きな設備や組織をつくろうとなさらないのは、俗化し商売化しないためです。他の組織が俗化し商売化している現実を見るとこのことがよくわかります。

もし沖ヨガ道場というものがなかったら、その教えはいまどのような形で伝わっていただろうか、と思うことがたまにあります。

<277ページ 付記1 沖導師に聞く より>
質問:多くの人は「悟り」について話しますが、わかったようでわからないのがこの語です。人々は沖導師は「悟った人である」といいますが、本当に悟っておられますか。悟りについてお聞かせください。
沖導師:私は悟ってはいない。悟りとは、物事を正しく受け取れることだ。たとえば本当に悟れた人ならすべてに有意義を感じ、感謝いっぱいの生き方ができるはずだ。それはすべてを「有難い」と受け取るのが正しい受け取り方だからである。だからそのように受け取れないのは心のできていない証拠だ。悟った人はどんなものにも思いやりと愛情を感じる広く深い心の状態になっていると思う。
悟りとは、すましきった冷ややかだけのものではないのだ。私達には欲望の悟り、感情の悟り、知性の悟りの三つを併せもつことが必要なのである。このように悟っているかどうかは自分でわかるのだ。私もすべてを本当に拝める生活者になりたくてたまらないのだが、なかなかそうはなれない。悟っていないからだ。それではいけないのだと気づけたことを有難く思っている。

「私もすべてを本当に拝める生活者になりたくてたまらないのだが、なかなかそうはなれない。それではいけないのだと気づけたことを有難く思っている。」って、最後まで、どこまでもリアルで素敵な人だと思います。


これはあくまで私見ですが、人に否定されないことが「責任を果たしている」このとの証だと思うようなムードがじわじわと蔓延してくることは、生命エネルギーの減退のように思います。人に感謝されることで「やっと"責任"の手前の土俵に立てたかも」くらいの志でやっていかなければいけない。


あらためて引用を読み直して、普段の仕事の場面で身の引き締まる、そして励みになる言葉ばかり。ヨガの宗教的な側面について誤解している人にはスルーしていただきたい、誤解していない人にはぜひおすすめしたい一冊です。

生きている宗教の発見―だれでも悟り救われる沖ヨガ修行法

生きている宗教の発見―だれでも悟り救われる沖ヨガ修行法


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