うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

解説ヨーガ・スートラ 佐保田鶴治 著

解説ヨーガ・スートラ
前に紹介していなかったっけ? と思われた方、ちょっとややこしいですね。過去に紹介したのはヨーガ・スートラも含む、3つの教典を収めた「ヨーガ根本教典(同じく佐保田先生の著書)」で、こちらはヨーガ・スートラのみを徹底的に解説してくださっている、ソロ・バージョンです。これまでヨーガ・スートラについては佐保田先生の「ヨーガ根本教典」のほか、「ヨーガとサーンキヤの思想―インド六派哲学 中村元選集 決定版」(←名著!)の紹介でもいくつか要素を紹介したことがあります。
このソロ・バージョンの「解説ヨーガ・スートラ」は、「ヨーガ・スートラ」そのものの解説の前後に「ヨーガ・スートラを読む人のために」「ヨーガ・スートラ入門」の章があります。この最後の「ヨーガ・スートラ入門」が、かなりよいです。ヨーガ・スートラにおける心理学、輪廻の理論、超能力的な記述について、佐保田先生が解説をしてくださっています。佐保田先生のチャームも、後半でチラチラ出てきます。
知りたい人には、サーンキヤ哲学のこともしっかり解説してくれている、とっても親切なまとめられ方になっています。
うちこは、ヨーガ・スートラは「インド人がヨーガを通じて発見した、人間の心と身体の中で起こる科学と化学の研究ログのまとめ」というふうに受け取っています。他の佐保田先生の本すべてに共通していえることなのですが、そこらへんのことを、われわれが身近に感じられる「仏教の教え」に紐づけて書いてくださってるのが、なんともいいんですねぇ。スートラ二乗!の楽しさ。


ではでは、紹介いきます。
※スートラ本体の文章を指す箇所は青色の太字にしておきます。

<16ページ ヨーガ・スートラを読む人のために より>
いかなる意味においても、自我を離れては、絶対者への道はあり得ない。神秘思想は自我意識から出発する。これとは反対に予言者は霊媒の一種である。ある神霊の狂暴な干渉によって、自己の全人格を否定され、その神霊の道具と化されたものが霊媒であるから、ここでは憑依された霊媒の自我意識は問題にもされ得ない。宗教者その人の主体性は、いかなる意味においても介入の余地がない。これに反して、神秘思想にあっては、宗教者その人の主体性はいつも堅持されている。自己を否定するのも自己である。極端な形の神秘思想の中には、神の観念の匂いすらない。神なき宗教もあり得るのである。

つまりはじめに言いたいことは、「神なき宗教もあり得るのである。」この最後のひとこと、ってところなのですが、今ですら誤解や過剰な期待が多いこの世界、当時この短いセンテンスで「ことわり」の整理をつけてぐいぐい先にすすめていくのは、けっこう大変なことだったのではないかと思います。潔くって、チャーミング。

<29ページ ヨーガ・スートラを読む人のために より>
 自性が展開する根本動機は真我の解脱にあるわけだが、どうすれば解脱すなわち真我独存は実現するか? 解脱の直接の原因は、真我とか自性とか、混同すべからざる二物であることをほんとうに認識することにある。

見るもの、見られるもの。照らす存在、その対象。そんなことの説明部。諸説ありますが、これを五文字(観自在菩薩)で般若心経の冒頭にもってきた三蔵法師って、やっぱりすげーーーと勝手に解釈して感動しておったりします。

<51ページ 三昧章 より>
〔無想三昧〕
一・一八
もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である。

(上記の解説より一部抜粋)
想念を止めるのも一つの想念であるはずである、というところに数論(サーンキヤ)・ヨーガ哲学の積極的な考え方が見られる。道元禅師の『普勧坐禅儀』に「念起らば即ち覚せよ、之を覚せば即ち失す、久々に縁を忘じ、自ら一片とならん」(岩波文庫による)とあうのは、同じ趣向である。

賛成の反対には賛成だけど、それには反対なのだー! みたいなくだり。三蔵法師もすごいが、バカボンのパパもすごいよ。

<79ページ 三昧章 より>
〔無種子三昧〕
一・五一
最後に、この行も止滅したとき、一切が止滅するから、無種子三昧が出現する。

(上記の解説より一部抜粋)
もしも波が何かある弱点の波であれば、真我はその波に反映するから、わたしは弱い、と思う。またわれらの種々な観念は行すなわち過去の印象の遺留から生ずるが、これらの行が真我を覆っている。だから、真我のほんとうの性質は、心の湖の水面にたった一つの波でもある限りは把握されない。すべての波がしずまって後に、はじめて真我はとらえられるのである。

ヨガナンダさんも、同様に波と水面で説明をされています。(参考
わたしは、カルマへの想念に覆われていない真我の瞬間を増やすトレーニングが、「瞑想」というものではないかと思います。そのほうが、健康な瞬間が増えるわけです。「冥想」ってことになるとまた話は別なのですが、これらについては機会があれば、書きますね。

<120ページ 自在力章 より>
〔静慮 ── ヨーガ第七部門〕
三・二
静慮とは、凝念にひきつづいて、凝念の対象となったのと同じ場所を対象とする想念がひとすじに伸びてゆくことである。

(上記の解説より一部抜粋)
静慮(dhyana)は仏教で禅那(jhana)といい、現代は"meditation"という語をこれに当てている。ヨーガ的心理操作中の最も中心的な過程である。
静慮についての経文の説明がまことに科学的なのに驚かされる。

わたしもこの流れを読みながら、「ポエム!」という印象を受けたのですが、「無」のひとことではなく「すじ」と言ってくださったほうが、日本人にはしっくりいくように思います。

<134ページ 自在力章 より>
三・一七
言葉と、言葉の表示する客体と、言葉の表象内容を混同するために、混乱が起きている。これら三者の区別に綜制をほどこすことによって、あらゆる生きものの叫び声の意味がわかる。

わたしはこの糸(スートラ)がベスト・ワン。
仕事のときに、よく思い出す。「仕事についてした指摘は、それをしたあなたに対する批判ではありません。そしてその仕事は、あなたひとりによってなされたものでもありません。なのに、なぜそんなにヒステリックに反応するのですか。もうまともに話が聞けないくらい、波立ってしまっていますね。ここからは、もう仕事の話ではなくなってしまいます。」という残念な場面でいつも、「もー、インド人が五世紀にはその思考パターンのおかしさは指摘済みなんだけどっ!」と思う。
OLって、大変よぉ。

<180ページ 独存位章>
四・三四
独存位とは、真我のためという目標のなくなった三徳が、自分の本源へ投入し去ることである。あるいは、純粋精神なる真我が自体に安住することだ、といってもよい。

三徳が、自分の本源へ投入して去っていったら、どこいっちゃうのー? とか考えないこと。きりがなくなっちゃうので。

<227ページ ヨーガ・スートラの構造 より>
心の動きを止める想念というのは、心中に何かある一つの想念が浮かんでくるごとに、その想念を「ネーティ・ネーティ」(neti,neti そうではない、そうでなはい)といって、いつまでも否定を繰り返していく心理操作である。

パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」にも、同じ話が出てきます。

<238ページ ヨーガ・スートラの心理学 より>
 ヨーガ・スートラのヨーガ思想は、サーンキャ・ヨーガ派の流れに属するものであるから、その思想の根基はいうまでもなくサーンキャ哲学にある。それで、われわれは当面の問題であるヨーガ心理学の理解に必要な限度でサーンキャ哲学についての知識を提供しておかなければならない。
 サーンキャ哲学の特色は、実在論(realism)と多元的二元論(pluralistic dualism)という二つのことばで簡単にいい表わすことができる。二元論というのは、世界の究極的な実在として唯一の自性(prakrti:nature)と無数の真我(purusa)とを立てることである。自性は客観的世界の唯一の根源であって、すべての客観的な存在はこの唯一の根源的実在から展開したものである。人間の心理的な器官と機能も自性を根源としている。心理的な現象までがプラクリティを根源としているというならば、真我はなんのためにあり、どんな役目をするのか? 真我は、サーンキャ哲学では、いかなる作業もなさず、永久に不変であるから心理的な作業の主体であることはできない、となっている。ここでは真我は純粋な観照者として、ただ客観的対象を見ているだけである。見ているとはいっても、自分の意志で見るというはたらきをするのではなくて、それはただ真我の本来の在り方に過ぎないのである。だから「見る」というよりも、むしろ「照らす」といった方がよい。光が無心にものを照らすように、真我は意志しないで、自然に対象を照らしているのである。真我はそれ自身では、他にはたらきかけることもないし、他から干渉されることもない。この意味で、真我は孤高独立な絶対者である。しかるに、この真我が自性に出会うことから、はしなくも、世界の物心両面の展開の激流の中へ引き込まれて、そのなかで輪廻や苦楽を経験することになり、自己本来の絶対的主体性を見失ってしまうことになる。これがわれわれ人間の姿である。
(中略)
では、どうして、この両者の出会いが世界展開の機会となったのかといえば、それは自性がお節介な決意を抱くからである。自性はこの時、相手の真我のために、苦楽の経験と、そしてそれからの解脱とを得させようという気になり、その仕事を勝手に自分に引き受ける決心をする。そしてその相手たる真我を、まるで磁石が鉄片にはたらくように、自分の方へ引きつけてしまう。こうして自性が真我との間に不離の関係を仕立てあげると、自性自身の内部から次第に万物が展開してくることになる。

このへんのことは、マハルシ師のことばで運動神経的に感じられることをおすすめします。(参考書1参考書2
それよりも、この「では、どうして、この両者の出会いが世界展開の機会となったのか」の回答が「それは自性がお節介な決意を抱くからである」ってのがサイコーです先生。すごい持っていきかた! チャームが漏れちゃってます。こういうところがたまりませんです、佐保田博士。

<243ページ ヨーガ・スートラの心理学 より>

現代人はセルフ(たましい)というものと、エゴ(自我観念)との区別を明瞭に認知することが難しいが、深いメディテーションにおいては、エゴと根本的に相容れないセルフを実現することが可能であるし、また必要なのである。この人間の心理現象から全く独立したセルフの観念に基づいて設定されたのがプルシャ(真我)の観念である。真我は純粋な知者(観照者)であって行為者ではない。また真我は独存(絶対的自主独立)であり、それ故いかなる場合にも中立(傍観者)の立場を捨てない。それであるから、真我が自ら乗り出して、心理的な働きを作為するというようなことはない。

「真我は独存(絶対的自主独立)であり、それ故いかなる場合にも中立(傍観者)の立場を捨てない。それであるから、真我が自ら乗り出して、心理的な働きを作為するというようなことはない。」というこの2行は、神秘思想の本を読みはじめの人は、「えっと・・・」となりがちなので、覚えておくとよい説明。簡潔で、よいです。

解説ヨーガ・スートラ
佐保田 鶴治
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