うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分を証明する物的証拠を捨てること

人間たちの中で、人間たちの決めた価値観が変化していくのに途方もない時間がかかる。
なかでも差別について考えるときは、沼にハマったようにもう考えるのを放棄したくなることがあります。
ヨガをしているとインドの歴史に親しむことがあって、身分が聖性で差別されるってやっぱり独特な世界だなと感じます。以下は、以前読んだ本の引用メモをずっと保存していたもので、読むたびにさまざまなことを思います。
この本からの引用です。

 

聖紐授与という儀式について書かれていました。

 儀式は、本来はかなり煩雑で長時間を要し、バラモンのばあい、三日がかりという大がかりなものであったらしい。もちろん今日では、子供たちは義務教育を受ける関係で、ウパナヤナもずいぶん形式化され、簡略化されていることは言うまでもない。いずれにせよ、式の中心は「聖紐授与」である。学生、ブラフマチャーリンは、人生の完成(解脱)に向かう長い旅路への出立にあたって、苦行者のまとう上下の衣を身につけ、手には「ダンダ」と呼ばれる聖杖(せいじょう)をたずさえ、三本の白い糸を右撚りにした「ヤジュニャ・ウパヴィータ(聖紐)」を左肩から右脇下に掛けてもらう。聖紐は、バラモンは木綿、クシャトリヤは麻、ヴァイシャは羊毛の糸を用い、処女の手になるものでなければならない。
 その日から再生族は、汚れたり傷んだりしたものをとりかえながら、生涯、聖紐を肌身離さず身につけるのである。それを無くしたりはずしたりすることは、宗教上のゆゆしい犯罪とみなされるからである。二十世紀屈指の「大聖者(マハルシ)」として崇められる、南インドの由緒あるバラモンの出身であったラマナ・マハルシ(1879~1950)が、カースト制度を否定して、自発的に聖紐を捨てたことや、ガンディーとタゴールが、それぞれカースト社会の差別に抗議して、ある時期から聖紐を身につけなくなったことなどは、われわれ日本人には想像にあまりある英断であり、勇気を要する行為であったろうと思われる。事実、筆者が知遇を得たある学者も、同じ理由で「聖紐を捨てた」というが、そのことについて、他の知識人から讃辞とも皮肉ともつかぬ歯切れの悪い批評を耳にしたことがあった。最近の若者たちのあいだで、聖紐はどのように考えられているのだろうか、意識調査の結果などあれば知りたいものである。
(206ページ 聖紐授与 より)

こういうのは自由を得るために所属や権利を捨てるというのとはちがうので、イメージの置き換えようがなく、その企図に想像が及びません。


わたしは変化を拒む気持ちについてよく考えることがあるのですが、変化を拒む気持ちに向き合うって、大変なことです。変化しちゃえ!と勢いで行こうとするときは、そもそも否定したい過去が存在している場合がほとんどです。
なので、べつに否定したいわけでもないであろう由緒を捨てるということは、やはりそうとうのセルフ問答があってのことだと思うのです。その考えは、思想なのか、意見なのか、革命意識なのか、それとも否定なのか、もっと別の意識なのか。

 

広く想像することも深く考えることもしんどくて投げ出したくなるとき、わたしはたまにこの「自分の身分証明を捨てる」という行為について思い出します。