うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

黎明 葦原瑞穂 著

黎明 葦原瑞穂 著
1998年に出版された本で、著者名はペンネームです。修行中の身なので、とのことです。
この本を知ったきっかけは、「あるヨギの自叙伝」の感想にコメントを寄せてくださった「bigben」さんの紹介から。すすめてくださったので、あまり深く考えずに手を出したらえらいもん掴まされちゃったなオイみたいな感じですが(笑)、「あるヨギの自叙伝」に登場する人物のほか、「リトル・トリー」の感想の中で引用紹介した297ページの内容もこの本の中で紹介されていました。わたしが読んできた本の感想を踏まえた、本当にきめ細かくありがたいレコメンドでした。


今まで読んだ本の中で、ブログにこうして感想を書くには、わりと「取扱注意」的なことを書かないといけないかなぁと思う度が高い本です。幸い文中で著者の方が口すっぱく書いてくださっているので特にうちこが強く言う必要はないのですが、わりとこういったものに触れ慣れた段階で読んだほうがいいことだけは確かです。


とてもボリュームのある本なので、ほんの一部といってもかなりのボリュームです。
そして、引用の内容でわかると思うのですが、いくつか事前に読んでおいたほうがいい本もあったりします。過去に読んでここで紹介したことがあるものについては、リンクを張っておきます。しつこいですが、はじめに著者さんのこの本についての意向が示されている記述をまとめて引用紹介しておきます。



<8ページ 序章 より>
自分とは何でしょうか。
なぜ意識というものが在るのでしょうか。
どうしてあなたは今ここにいるのでしょうか。
人生には目的があるのでしょうか。
私達の生活しているこの世界の本質は一体何で、世界は何のために存在しているのでしょうか。

 本書では、こうした人類にとっての永遠のテーマに真正面から取り組みます。

<622ページ 終章 より>
 本書では、現在地球上で生活をしている私達人間の実相と、現象的に置かれている状況、そして近い将来に起る、また現在起りつつある変化と、すでに起ったことを理解し、適切な対応をするために、情報を必要とされる方々に提供させていただく目的で、普通の方法に因り書かれたものです。

<75ページ 普遍意識 より>
本書はそれなりの背景が在って著されたものではありますが、これを情報として受け取る読者の皆さんにとっては、他の本を読んだり、人の意見を聞く場合と、状況としては区別が付かないわけですから、ご自分で確かめられないことについては、肯定も否定もせずに態度を保留しておかれることが賢明です。

<307ページ チャネリング より>
 智慧は、この叡智がある程度具体化したもので、常にその人の内側から啓示されます。これに対して知識は本や人から得たもので、外側にあるものです。この違いが大変重要であるのは、人間は内側の智慧に因ってのみ、自分自身の正しい判断を行うことができるからです。外部からの知識は参考にするのは良いことですが、書物や人の意見に全面的に頼るようになって、自分で考えることを放棄すれば、この考えを受け容れようとしたり、あの考えに合わせようとしたりして振り回されることになって、迷いを増やすだけの結果になります。

<393ページ 光と影の識別 より>
 全知全能である普遍意識は、その人のその瞬間における正しい対応を宇宙的視野に立って示し続けていますから、その自由な表現を妨げることのない平静で透明な心の状態を保ち続けて、外部の情報や「陰謀説」をも含めたあらゆる固定観念を、完全に心から解き放っておくことが他の何よりも大切なことになってきます。


ここまでは、いわば心構え的なおはなし。
ここからは、メモしたいと思った箇所や、普段感じることにふわっと触れる感じがした箇所を紹介します。

<72ページ 普遍意識 より>
 お寺などにある三猿、すなわち「観ざる、言わざる、聴かざる」の像は、このような自我意識の状態を表しているもので、解脱していない人間は見ても正しく観ることはできず、いっても正しく言うことはできず、聞いても正しく聴くことはできないと言うことを、猿の所作によって表しています。時折「見えても見えない振りをし、いいたくても言わず、聞こえても聞かない振りをする」といった処世訓のような説明がされることがありますが、これはもちろん全くの誤りです。

2007年に日光東照宮へ行ったときに、立看板の説明か、近くにいらしたツアーの観光ガイドさんの説明(どっちか忘れちゃった)でこの意味を知りました。なんとなく後者の意味だと思っていました。反省猿。

<102ページ 創造の原理 より>
 聖書に「女性は教会の中では黙っていなさい」と言うような表現があるのも、受け取り方によっては女性解放運動の槍玉にあげられそうな内容ですが、その真に意味するところは、「神を意識するとき(教会の中)には、物質的な五官に反応して生じる自我意識(女性)を沈黙させなさい。」と言うことにあるのです。この他にも聖書の中では、当時としてできた精一杯の譬えとして、神で在る生命の能動的な側面を「火」、表面媒体としての受動的な側面を「水」と呼んでいますが、日本神道における男神、女神それぞれの尊称である神漏岐命と神漏美命も、それぞれ火の玉と水の玉をしており、その語源においては同じ意味を持っていました。またヒンズー教でいうプルシャとプラクリティも、ほぼこれらと同義であると考えて良いでしょう。
 なお、これは大変重要なことなのでぜひ覚えておいていただきたいのですが、ヨーロッパを中心とした文明圏では、能動原理であるエネルギー(霊=生命)がプラス、受動原理である物質やその他の波動領域の表現媒体がマイナスと定義されているのに対して、日本神道や中国の漢方等、東洋では陰陽の指しているものが反対になっており、能動が実相の陰(隠されたものの意)、受動が表現の陽(顕れているものの意)として示されていますから充分に注意してください。日本語で「お蔭様で」というのも、目に見えない神の加護を表していて、本来は相手にお礼を言っている言葉ではなかったのです。

東洋と西洋での解釈の違いについては、うっかりそういう本に出くわしがちな人は覚えておくと混乱しませんね。「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」上のヨギーニーの定義を読んだとき、なんだか恐ろしく男尊女卑だなと思っていたのですが、後日読み直してみなくては、と思いました。「お蔭様で」って言われて「いえいえ私はなにも」とはもう答えられませんね。

<127ページ 地球生命系 より>
精神階層では、ヴァイブレーションの低い方から高い方を見ることはできませんから、二つの魂がそれぞれの表現体を通してお互いに認識しあうことができるのは、双方の表現体が共通のヴァイブレーションを持っているときに限られます。従って普遍意識に至る前の魂の表現は、肉体を持たない表現世界(アストラル及びメンタル・レヴェル)では、自分と似通った性向を持つ人達だけと接触することになって、自分の状態を客観的に観るような比較対照ができにくく、魂の成長にとって必要な刺激もどうしても少なくなります。
 これに対して地上では、意識の進化段階としては本来地上にやってくる必要のない高度な魂から、初めて地球上を経験する若い魂まで、あらゆる意識レヴェルを表現するパーソナリティが、肉体という共通の波動領域の衣をまとうことによって、自由に出逢うことができるようになります。このため偉大な大師から貴重な教えを受けたり、未熟な人間から散々な目に遭わされたり、といった顕著な体験をすることがここでは可能になっており、短期間に大幅な進化を遂げようとする魂にとっては、絶好の環境が提供されているのです。

日々起こる理不尽なことも、自己認識をあたらめて意識させられる修行の場ですね。「こんなことを思う自分だって、相手と並列ではないか」と反省することばかりです。

<149ページ 誕生と死 より>
 高次媒体が肉体から離れる経過には、その人の肉体を含めた各媒体の性質や状態、意識の発達程度によって色々な場合がありますが、意識がある程度覚醒していて、その過程における個的意識の焦点(恒久原子と呼ばれ、これだけは各転生にわたって維持されます)が脊椎の中心、もしくはその周辺を上昇して、頭頂のサハスラーラ・チャクラから抜け出るようなかたちを採るときには、狭いトンネルの中を高速で通過するような感覚が生じる場合があります。この高次媒体が肉体から抜け出るときの通路になるものは、脊椎の中心に位置するスシュムナ・ナディと呼ばれる部分ですが、意識が進化してこれを通るエネルギーが大きくなってくると、スシュムナ・ナディの直径は肉体よりも大きくなりますから、両者は単に重なっているだけで、スシュムナ・ナディが脊椎の内部にあるものとは考えないでいただきたいと思います。

ここは引用しようかなぁ、と迷いました。「いまチャクラって、流行ってんの? なんのドラマの歌?」という感覚で聞き返したくなるような場面でチャクラという単語を耳にしてしまうから。このコメントは次の項目にも続きます。

<529ページ 霊的向上の方法と瞑想 より>
 チャクラが開くという現象も、その人の意識の発達に伴って媒体から表現されるようになるエネルギー(想うこと、話すこと、行うこと)の結果として自然に生じるものですから、チャクラを開くことで意識が発達するわけでは決してないと言う点に充分注意してください。従ってクンダリニーの場合と同様に(この両者は別々のものではなく、同一の現象の二つの側面に過ぎません)、チャクラを開くとそのものを目的とする行法を行ったり、誰かにチャクラを操作してもらったり、薬物を使用したりすることは、混乱を招くだけで何ら得るものがないということを言明しておきます。

もっと先のページにあったことなのですが、ここに持ってきて紹介します。個人的にチャクラという単語は慎重に扱っています。
ちなみに、ホリスティック医療キャロライン・メイスさんのようなアプローチでの場合は別と思っています。このあとに著者さんが「閉ざすことで好ましくない波動領域からの影響を防いでくれる」とも書かれています。

<154ページ 誕生と死 より>
自殺はあらゆる側面から考えて割に合わない選択であることを、多くの人に知っておいていただきたいと思います。自殺に追い込まれる人はほとんどの場合、自分が置かれている状況にそれ以上堪えられないと思い、死ぬことでこれらの状況から生じる義務や精神的苦痛に満ちた精神状態をそのままアストラル・レヴェルに持ち込むことになって、事態は一層厳しいものになってしまいます。アストラル・レヴェルでじゃ、自殺に追い込まれたときのような否定的な感情が造り出す苦しみは想像を絶する強烈なものになりますし、否定的な波動によって生じる真っ黒なオーラは、本人に外の世界を見えなくさせるだけでなく、アストラル・レヴェルの章で詳しく説明しますように、外部からその人を救おうとする援助者の接触を非常に難しくします。

「とはいってもねぇ」という人の気持ち、わからなくないです。解放されたくなる気持ちのことですね。最近、そのうえでいろいろなことを考えるようになりましたが、物理的な解放だけが解放ではないので、ややこしい。

<157ページ 誕生と死 より>
「あなたが今、成仏(普遍意識の自覚)をしていないのであれば、死んでも決して成仏することはないであろう」と言った、空海の名言がありますが、地上で苦しみを造り出すのを止めない人は、精神階層でもさらに強烈な苦しみを造り続けるでしょうし、地上で霊的向上のための選択を怠った者は、精神階層ではなおさら遊び呆けてしまうという結果になりがちです。

即身成仏。さっさと仏になるハヤワザではないのだ。(理解する前は、孫悟空ケンシロウさんが出しそうな技かと思っていたので)

<279ページ 大師 より>
 病気の別の原因として、意識の進化に伴い、本人の媒体に表現されている様々な領域の波動が精妙化して行く過程で、相対的に低いヴァイブレーションが消えていくときに、そのエネルギーを病気という形で肉体に表現することがあり、このような場合を浄化と呼びます。風邪はこうした浄化作用の典型的な例に当たるものですが、ひどい風邪を引いた後に慢性病が治ったり、症状が軽くなったりすることがあるのは、こうした形での浄化が上手くはたらいた結果です。

野口晴哉さんの「風邪の効用」にも、「とにかく身体が浄化したがっているのだから、甘やかしちゃだめ」といったことが書いてあります。

<337ページ 善と悪 より>
 性は元々一つのエネルギーの表現を二つの極に分けたものですから、磁石のように、互いに自分にはないものを求め合うという自然な性質があります。また最近の過去世において女性としての表現を多く経験している魂が、今生は男性として転生してきたり、その逆のケースでは、過去世の性質が強く残っている場合がありますが、これは魂がバランスを取る目的で、それまでに表現していなかった性質を表わす際の初期によく見られる傾向です。
 意識が進化して、自分の内側で両性のバランスが取れるようになってくると、外側に異性を必要とする欲求は生じなくなりますが、これはあくまで自然にそうなるのであって、性的欲求を否定したり、抑圧することで意識が進化するわけではありません。さらに普遍意識のレヴェルでは総てが自分で在り、一人しかいないわけですから、男女という区別は意味を持たなくなります。

みんながバランスをとってしまうと、情報通信業の半分は成立しなくなってしまいそう。

<397ページ 光と影の識別 より>
 日本神道では、周囲の人達や環境が自分の鏡であるとして、この「かがみ」から「が(我)」を取り去ると「かみ(神)」に成ると考えています。周囲の出来事は全て自分の出している波動に因って現象化されているわけですから、自分の心の中に学ぶべき要素となる波動が残っていなければ、不調和な出来事に出会うことはありません。
 従って浄化の過程で起る困難な出来事のいっさいは、それが人間関係であれ病気であれ、事故であれ自然災害であれ、必需品の欠乏であれ経済的支配であれ、その人が思い、語り、行ってきた様々な表現の中で、自然法則からズレていた部分に気付かせ、心を磨き上げ、魂を進化させるために生じている、必然的な現象であると捉えることが適切でしょう。

神道のことばというのは、普段身近にあるものだからこそ、驚くような学びが多いです。葉室頼昭さんの「神道と日本人」にあった「働く」ということばや、「神道のこころ」にあった「けがれ」ということばなど、ハッとする教えばかり。

<510ページ 霊的向上の方法と瞑想 より>
 普通、瞑想というと足を蓮華座に組んで(右足首を左足の太股の上に乗せ、左足首を右足の太股の上に乗せる形)背筋をまっすぐに延ばし、両手は左右の膝の上に乗せるか、真ん中に置いて印相(ムドラ)を組み、瞼は閉じるか半眼に開く、という姿を思い浮べるのではないでしょうか。これらの形(アーサナ)にはそれなりの理由があって、瞼を閉じるのは物質レヴェルの視覚的な情報に意識を奪われないためですし、背筋を延ばすのは、脊柱の部分にあるエネルギー(プラーナ)の通路をまっすぐにすることで、エネルギーの流れをスムーズにする目的があります。また手や足の先端はエネルギーが外部に放射されやすい部分なので、両手をしっかりと組んだり、身体にぴったりと付けると、エネルギーが外部に漏れにくくなるので、身体全体が閉鎖回路(クローズド・サーキット)を形成して、意識を内側に向けるのに適した状態になります。これと反対に、両手の形を色々に組み合わせて作る印相は、手の先から放射されるエネルギーをコントロールして、外界に対して様々な影響を行使したり、特定の波動領域を知覚するために用いるものですから、意識は外界へ向きやすくなります。
 足を組むのも同様に、足の先端からエネルギーが漏れるのを最小限に防ぐことと、肉体レヴェルの意識を失っても身体が倒れないようにするためなのですが、欧米人や日本人の足の形状はこのような組み方には向いていませんので、無理をすれば痛みが生じて肉体に不必要な意識が向くことになり、本末転倒になってしまいます。

これは、今後書こうと思っている結跏趺坐についての記述メモ。足を組むのも同様に〜 本末転倒になってしまいます。 のところが、大切なメモ。

<542ページ 霊的向上の方法と瞑想 より>
 それではここで、瞑想と共によく用いられる、マントラと呼ばれる行法についても簡単に触れておきましょう。マントラと言うのはサンスクリット語で、「マン」は言葉、「トラ」は道具という意味であり、両方合わせて「言葉を用いる道具」となるわけです。明確な意志を持って使用した言葉と言うものは、想念や具体的な行為と同じ様に自然界に対して影響を与えるものであり、人間に内在する神の想像力を発動させるものであるという大原理がマントラの基本になっています。

マントラの語源メモ。調べればわかるのでしょうが、この本の記述をメモしておきたいと思いました。

<599ページ 宗教 より>
「あなたたちの進歩にとって大きな妨げとなっているもののひとつは、祈りの時間がそれ以外のことをする時間とは違っていなければならないという、誤った考えである」
(イエス大師 "Divine Healing of Mind and Body" P158,L18-19 日本語版「心身の神癒」392頁 第12話 27節〜28節 引用文の訳は著者)

カルマ・ヨーガの教えですね。


ここからは「ババジ」に関する記述をまとめて。
 ★参考感想ログ:
 「あるヨギの自叙伝
 「人間の永遠の探求
 「聖なる科学
 「ババジと18人のシッダ―クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道
 
 ★直接参考ではないのですが、間接参考感想ログ:
 「クンダリーニ・ヨーガ」(ババ・シリ・チャンド という名でコラムに登場)

 ★ついでに紹介していいすか
 「サージェント・ペパーのジャケットに写るヨガ聖者4人の話


ここから引用紹介です。

<239ページ 大師 より>
 ババジという名前自体は、「父」という意味の「ババ」に尊称である「ジ」を付けたもので、インドには「石を投げればババジに当たる」くらい、同じ名前の霊的な指導者がいるのですが、ヘラカーン・ババジ大師が帰依者の質問に答えて、自分はシヴァ・マハーアヴァター・ババジ大師として知られている存在であることを繰り返し認めているのに対して、ヨガナンダの設立したSRF(Self Realization Fellowship)では、ヘラカーン・ババジ大師をシヴァ・マハーアヴァター・ババジ大師とは認めていないというややこしい状況があります。

ややこしいー! けどどっちでもいかもー、みたいなスタンスでいていいと勝手に思ったきっかけは「クンダリーニ・ヨーガ」という本のコラムを読んでから。阪神ファンでも巨人ファンでも野球ファン! 
師というのは、相手によって適切な段階で話すのが当然でしょうから、こういうこともあるのでしょう。

<476ページ 日常の生活 より>
 シヴァ・マハーアヴァター・ババジ大師は、十九世紀に弟子のラリヒ・マハサヤを通して、クリヤ・ヨガという特定の行法を伝えていますが、ラリヒ・マハサヤの孫弟子に当るパラマハンサ・ヨガナンダが「クリヤ・ヨガを一日八時間半かけて千回行い、それを一年間続けたとすると、三十六万五千年に相当する進化が遂げられる」と著書の「あるヨギの自叙伝」に書いているために、今でもこの行法に励んでいる人達が数多くいます。
このクリヤ・ヨガに関してヘラカーン・ババジ大師は次のように語っています。

「実のところ(Kai Hai Ki)あなたの日常の朝から夜までの仕事が本当のクリヤ・ヨガなのだ。(中略)この世にクリヤ・ヨガでないものはない。仕事を完璧に行うことが本当のクリヤ・ヨガなのだ」

「この世の中の全ての行為は、食べることや飲むことを含めてクリヤ・ヨガなのだ。身体の中で行われる消化のプロセスはクリヤなのだ。二つや三つのことを統合して一体化(ヨガ)させるプロセスがクリヤ・ヨガなのだ」

「世界の人々は他人によって混乱させられている。自分の義務を完全に果しなさい。前に前に進みなさい。それがクリヤ・ヨガ、それがカルマ・ヨガだ。この方法によってのみあなたは進歩できる。仕事を完全に果すことがクリヤ・ヨガだ」

「世界で今、目標を達成しようとしている科学者は皆クリヤ・ヨギ(クリヤ・ヨガを行う人の意)なのだ。集中して瞑想する人間は皆クリヤ・ヨギなのだ。クリヤ・ヨガとして(他のものと)区別されるようなものは存在しない。人々は誤って導かれてきた。何千、何百万もの人々がこの罠に落ち込んだ。ただ人々に平和と幸福とあらゆる種類の恩恵をもたらすものがクリヤなのだ。善い行いをすることがクリヤ・ヨガなのだ。礼拝もクリヤ・ヨガであるし、いかなる神々に祈りを捧げることもクリヤ・ヨガなのだ」

「皆が人類に奉仕しなければならない。それがクリヤ・ヨガだ。この世界で今の時期があなたにそれを求めている。あらゆる方法で、可能な限りのやり方で人々に佳きことをしなさい。彼ら、彼女らの欠乏しているものを提供しなさい」
(1983年11月10日 "Teaching of Babaji")

クリヤ・ヨガでもカルマ・ヨガでもどっちでもいい気がしてきますが、先に599ページの引用で転記したイエスさんと同じご意向であることが興味深いです。
そして、「ババジに関する初めての信頼できる伝記」と紹介されていた「ババジと18人のシッダ―クリヤー・ヨーガの伝統と自己覚醒への道」(=「ババジ伝」はそうではないよということなのでしょう)の中では、

「クリヤー」(Kriya)はサンスクリット語で「行為」を意味する「クリ」(Kri)と、「気づき」を意味する「ヤー」(Ya)に由来する。「クリヤー」とは「気づきを持って行う実際的なヨーガの技法」を意味する。

とあるので、たしかにヘラカーン・ババジ師の言葉とのニュアンスの違いは感じます。


とまぁこんなふうにややこしい世界。この著者さんも「ややこしい」と表現されています。
「ババジ伝」も、読んでみるかなぁ。

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