うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

無の道を生きる ─ 禅の辻説法 有馬頼底 著

前半は著者さんの自伝、後半は現在のお寺での生活やさまざまな活動について、日常に役立つ禅の教えを織り交ぜながら書かれています。思っていたよりも自伝的でした。
日常にストレスはつきもので、一概にすべてが悪いストレスではなく、自分の状態にもよるのだと思うのですが、こうゆう本を身近に置いているかいないかで、多少は気持ちに違いがあるのではないかと思います。
この日記を読んで、うちこのことをものすごく読書家だと思っている人がいるかもしれませんが、「読書大好き!」ということはぜんぜんありません。ずっと運動をしていたいくらいです。
移動のときに手持ち無沙汰なのがいやなのと、なにか「求道」的な本を身近においていると、会社への行き帰りの時間の気の持ち方がぜんぜん違うので、些細なことがほとんどですが、少しでもカチンと来る回数が減らせる。怒りもひきずらなくなります。読書セラピーみたいなものでしょうか。

今日の本はいわゆる説教本なので、引用しだすときりがないタイプのもの。いつもよりずいぶん多いですが、紹介します。

<96ページ 第三章:人を動かす どんな相手にも、心から「おおきに」 より>
まず、自分。私の心はどうなのか。真っ白なのか、濁っているのか。誠意があるのか、ないのか。真っすぐにその人と相対すれば、相手も真っすぐに返してくれる。人間関係というのは、鏡みたいなものですよ。

同じように対応しているつもりでも、本音のところで信用していないと、やっぱりこじれますね。

<100ページ 第三章:人を動かす 別に工夫なし より>
必要に応じて、その場にふさわしい話、ふさわしい雰囲気というものがある。やはりそれを判断できるようになるには、経験なんです。
そしてもっとも大事なこと、それは、人の評価を気にするな、ということ。受け止めた側が「ああ、すごい人だな」と思ってくれればよし。「あほなことを言っているな」と思われるなら、それもよし。どっちでもかまわない。他人の評価なんて、気にしないことです。

言われてなんぼですよね。言われるほどのこともしていないのに他人の評価を気にする人を見ていると、いつも不思議でなりません。

<107ページ 第三章:人を動かす 反対する人には、それなりの理論がある より>
だれか一人でも違和感を持っているときには、その場は前に進んだように見えても、先々に必ず問題が生じてきます。ですから、最後の一人まで納得してもらえなければ、それはまだ期が熟していないということ。

うーん。ビジネスの場面では、「反対」として成立していないレベルの理論はこの範疇ではない、としないと、時間ロスが大きくなってしまいますね。

<118ページ 第三章:人を動かす 知識で武装して世間と渡り合うことは、トップたる者の義務 より>
職場での戦いには、職場での戦法、戦略を身につける必要があるし、また、それがもっとも効率のいい方法でもあるわけです。
僧侶というのは、浮世離れしていることがいいみたいに思われがちですが、そうではありません。介入してこようとする行政に敢然と立ち向かうためには、世間のことを実はよく知っておかなくてはいけない。宗教法人法なんて、読んだことも見たこともないという坊主がたくさんいますが、それではあかんのですよ。

同時に、どこを相手にしているのか、理解している戦法の範囲を仲間と明確に確認する、ってのも大事だなぁ、と思いました。

<158ページ 第四章:文化を育てる 茶と禅の共通点 より>
無駄を省いて、省き切って、そこに残った正味の本物だけを認めていくというのが禅の世界です。本来無一物という境地に向かって、利休は進んでいく。ですから、先ほどの消息の話にもつながりますが、利休が、人にああせえ、こうせえと教えがましいことを決して言わなかったのは、そこなんですね。態度で示す。これが禅を突き詰めていった利休のやり方だったのです。実践あるのみ。だから態度で示す。

「いいから、やれ」と。猪木イズムだ。

<165ページ 第四章:文化を育てる 独座観念 より>
お茶を稽古している方は、ぜひ、なさってみてください。いろいろと書物を読んだり、人から教わったりすることも、もちろん大切ですが、知識に留めることなく自分自身がしてみてはじめて本当の意味が分かるのです。それはお茶に限らず、なんでもそうでしょう。

これまた猪木イズム。

<177ページ 第五章:生きること、死ぬこと すべてが空しく思えたとしても より>
これは、禅に限らず、なにごとにも言えることです。一つのことを一生懸命やればやるほど、何かを強く求めれば求めるほど、それが手にはいってしまったのではないかと思った瞬間、すべてが空しく感じられてしまう。

この、燃え尽き症候群的な感じ、ありますねぇ。とてもいやですね。常に、次を用意しておくことが大切ですね。

<185ページ 第五章:生きること、死ぬこと 落ち込んだら、じたばたせずに、じっとしていればいい より>
そこから這い上がるには、落ち込んだ状態のまま、じっとしていることです。人間というのは、面白い生き物で、いつまでもじっとしていられないようにできているのです。諸行無常、日々は刻々と動いていく。その中で自分だけ動かずにいるというのは、それはそれで、けっこう苦痛なものなんですよ。ですからじっとし続けていれば、必ず動きたくなってくるはずです。

まわりがリアクションをすることで、当人に、まるで「何かをした」ように錯覚させるのもよくないですね。

<188ページ 第五章:生きること、死ぬこと これと思えるものに出会ったら、前進あるのみ より>
もしも自分にはこれ以外にないと思えるものに出会えたら、簡単にあきらめずに、とことんそれと向き合ってごらんなさい。
その中で、落ち込んだときは落ち込んだままでいい、這い上がろうとしなくてもいいんです。無駄な労力を使う必要はひとつもありません。とにかく投げ出さず、今の自分自身をすべて受け入れて、肯定する。いいことも、悪いことも、すべて肯定してしまえば、少しも苦しいことはありません。

「これ以外にない」のきっかけが消去法だったとしても、思い込んでしまうこと、黙って続けてみるだけでも、発見がいっぱいですよね。

<209ページ 第五章:生きること、死ぬこと 死に切る、ということ より>
体験を積んで積んで、やってやって。これでもか、これでもかとやってみて、ようやく、一つずつ、自分にとっての無駄が見えてきて、捨てていくことができる。そうしてだんだんと捨てていって、最後には何もなくなる。

積んで捨てるものもないのに、いきなり無駄を省いてショートカットしようとすると、怪我をしますね。この段取りが、大切なんでしょうね。

<214ページ 第五章:生きること、死ぬことの注釈より>
白隠禅師坐禅和讃
白隠禅師によって作られた和讃。和讃とは、仏教の教義や経典の内容を日本語で表した賛歌のこと。座ることだけが坐禅ではなく日々のすべての行いが坐禅であること、あらゆる場所が浄土であること、さらには自分自身がすなわち仏であると説いている。

すべての行いがヨガ、あらゆる場所が道場。カルマ・ヨーガの教えですな。


説教本なので説教くさくなるのは当たり前の流れなのですが、こうゆうことを口に出して説法していただく機会は、なかなかあるもんじゃないですから、貴重です。
うちこが働くような業界では、やたらに「効率化」と叫ぶ人がおおいけれど、その土台に自分の実績ではなく、やってもみないでいう感覚批判があったりするので、正しい目はそれぞれがしっかり持っていないと、おかしな流され方をしてしまいます。
「口数が多いことはわかったけど、ところで、君はなにができるんだっけ?」ということのないように、行はしっかり積まなくちゃ。

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