うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

耳の悦楽―ラフカディオ・ハーンと女たち 西成彦 著

今年のゴールデン・ウィークに熊本の小泉八雲旧居へ行ったのをきっかけに、今年の夏に二冊、小泉八雲関連の本を読みました。

熊本では日本で結婚した小泉セツさんとの手紙を見たり、その前に結婚していた女性マティーさんの写真を見ました。そこでそれぞれの個人像が立体的に感じられて、どんな気持ちで生きていた人たちだったのか知りたくなりました。

 

ラフカディオ・ハーン小泉八雲)はギリシャで生まれ、39歳で日本へやって来る前に、アイルランド、イギリス、アメリカ、フランス領のマルティーニク島に住んでいた時期があります。最後は日本に帰化したけれど、その前にとても複雑な経歴を経ています。

こういうことって自分から知りにいかないと、日本贔屓の感覚で “日本の古き良き文化に気づいた人” みたいな偏った解釈をしてしまう。ラフカディオ・ハーン小泉八雲になるまで、どんな視点を携えてきたのか。

 

母語の抑圧・母語の喪失という経験が珍しくマイナスに働かなかった人” という見かたは、この本を読まなければ得られなかった視点でした。

ラフカディオ・ハーンは英語教師として日本で男子たちに英語の指導をしながら、家ではセツさんに対してこのように発言をしています。

 

 

 

  日本の女は日本の言葉で話した方が可愛い

 

 

 

その背景には、フランス領のマルティーニク島で土着のクレオール文化が損なわれていく過程を見た経験があるのですが、セツさんにとっては上記の発言は、悔しさを引き起こすもの。

英語の教育から締め出されたために仲間に入れてもらえない。この状況に対し、日本の年長者がそう言うかのように、同じように言うなんて。と思ったのではないでしょうか。

この二重の複雑さ!

 

 

著者はこのように見ています。

ハーンがセツに求めていたのは、あくまでも「女中兼料理番」的存在、それに暗闇の中で妖艶な物語を心ゆくまで堪能させてくれる「乳母」の要素まで兼ねそなえた存在であって、同性の親友や教え子に対してハーンが求めていたような種類の知性や友情とは、明らかに区別すべき種類の欲望の対象なのであった。

(語る女の系譜 ── ラフカディオ・ハーンの女たち より)

存在として求めるものと、役割として求めるものって、いつもクロスしたり重なったり、ときに都合よく分割されたりする。

これはすべてのパートナー・シップに言えることだけど、ラフカディオ・ハーンの生涯を通じてそれを追っていくと、人権的に口にしずらい、だけどとても大切な柔らかいところへ踏み込むことができる。

ラフカディオ・ハーンは「日本の言葉で話した方が可愛い」と言っているのであって、「英語が話せない方が可愛い」と言っているわけではないんですよね・・・。これは、女性側が理解するのがむずかしいところ。

 

 

この本をきっかけに小泉八雲のエッセイの魅力も知りました。

青空文庫で読める「夏の日の夢(THE DREAM OF A SUMMER DAY)」というのがあります。

 

 

途中に「浦島太郎」のお話が挿入されていて、その前後に旅行記をベースにしたようなエッセイがあるサンドイッチのような構成なのですが、このなかの浦島太郎は、わたしが知っている浦島太郎とは違っています。(チェンバレン教授という人による英訳本「浦島」)

冒頭にいじめっ子は登場しないし、エンディングはホラーで大人向け。浦島太郎は亀を守ったのではなく逃しただけの、ただの善良な人。

さらに、この物語のあとに、日本人の浦島太郎に対する見かたを「浦島を哀れむのは、全体、正しいと言えるのか?」と展開します。西洋式じゃそういう感じにならないのだけど、とくる。

 

このツッコミは、日本人のわたしが大人になって初めてダンテの神曲を読んだときに新しい地獄を見たような気がしたときの感覚を表していて、自分が自然にどういうふうに物語を受け取るのか、なにをどう美化するプログラムが昭和の子供時代にインストールされているのかを説明された気がしました。

 

 

著者の西成彦さんが解説する、浦島太郎の里への戻り方が南から北へ向かうのが当たり前のようになっているという分析も興味深く読みました。

また、日本へやってくる前のシンシナティ時代(マティーと結婚していた時代)からオカルト・サイエンスに強い関心を持っていて、「語り部」の声に耳を傾ける習慣も霊的なものに寄せる関心ゆえのものだろうとも書かれています。

ティーさん(本名:アリシア・フォーリー)については、以下の本でより深く知ることができます。