うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

回答を持ち帰るには大げさ。でも反応している者がいる。それがわたし。という状態(「すべて真夜中の恋人たち」読書会より)


今年最後の読書会は関西開催でした。今日の写真は会場入り口のボード。"うちこの" が、"うちのこ" になっちゃって、やぶれかぶれ感がたまりません。
これまで小説を教科書のように使って(でもインド思想ベースを盛り込みながら)話す読書会では、夏目漱石の作品を題材に行ってきた読書会でしたが、今回は現代小説でやりました。
その数時間の中で、参加されたうち二人のかたが、何度か「さっきの、あの感じなのですが」というのを話されていました。
これはわたしが今回題材にした「すべて真夜中の恋人たち」という小説を初めて読んだときに印象深かった要素でもあるのですが、主人公の態度が相手をイライラさせることも、またイライラする人の気持ちもわかるという、そんな状況のこと。
ひとりのかたが日常の中で感じる、こんな感じ…というのを話をしてくださいました。



 なんでもすぐ反応をしなければいけない関西特有の雰囲気に、
 ついていけないことがある。
 その場ですぐに伝えるのが苦手なわたしには、つらい。



このお話をうかがいながら、別のわたしがハッとしていました。
関西のスピード感がわたしは好きだったりするのですが、これは裏返すと「反応が早いので、やりやすい」ということでもあり、それはまぎれもなくわたしの好都合なのです。
いっぽう、少し設定を変えてみると、このついていけなさは "わたしが広告・メディアの仕事をする人たちの中で感じるバブリーな雰囲気についていけなかった感じ" とも似ています。
これはわたしがたまに思うことなのですが、日常で賛同・承諾・反対・否定、いずれにしても表明するのにためらうとき、



 たとえばこれが仕事で営業の場面だったりしたら、
 「いったん社に持ち帰って、のちほど回答させていただきます」
 という展開にもできるんだけどな…



と、そんなことを考えては、それは無理なのだろうかと思ったりします。
読書会でも上記をそのままお話しました。
すると・・・



「そう、持ち帰りたい!」
「いろいろ、思ってんねん! とは、思っているのだけど!」


と、かなり早いリアクション。うーん(笑)。
やはり「ついていけない」と感じるスピードの間にあるのもは、コンセンサスではないかと思いました。それなりの文脈を経ていれば同意できるものも、合意を求める案件の重量がいきなり重くないか? 影響が広すぎないか? ということが日常に差し込まれることって、細かく見ていけば、たくさんあるんですよね…。


わたしはヨガを長く続けてきてよかったと思うことのひとつに「態度を保留できるようになった」という心の筋力の変化があります。これがないときは、踏み込んだ関係を求められて面倒だと思うと、その人にはもう会いたくないと考えていました。いま思うと、ほとんどが自分のマインド・セットの問題であったと思います。すぐに合意しろと言われたわけではなかったのだけど、わたしが面倒だと思ったのはむしろその "軽さ" であったと、いまでは分解できるから。


日々の行動には外面的な動機と内面的な動機が混ざっているけれど、内面的な動機の容量がどんどん外面的な動機に侵食されてきてしまうことって、ありませんか? わたしは、これがすごくありました。とくに30代前半くらいまでの、社会の中で自分の居場所を探していた時期はそうなりがちであったと思います。
でもこの比率のしんどさに目を向け続けると、少しずつだけど、変わっていく。
この感じを、あえてわかりやすくするために昭和の表現で言うならば



 頭の中のおしゃべりが団地のおばちゃん的であったものが、
 少しだけ有識者会議に近づいた



いうなれば、こんな感じです。



「あれ、もうやった?」「わたし、昨日したわよ」「えー、わたしも早くしなきゃ」みたいな脳内対話が、些細な作業や手続きのレベルを超えて、内面的な決断にまで手癖のように侵食してしまう。
いまは頭の室内が会議室っぽくなり、その会議のメンバーに「嫌いな人」も設定できるようになってきました。そうするとイライラすることを先に済ませておけるというか、怒りの種類を事前に想像しておくことができます。リスクヘッジをするしないの判断も、あきらめの予測も具体的になります。



・・・なんですけど。

── え、ここから、話変わるの?

うん。ちょっと変わるのーーー!



この会議が調子づくと、朝まで生テレビみたいになってしまいます。
会議のトーンが、外向けになっていく。いつの間にか、パフォーマンスになっていく。
会議のトーンが、まるでプロレスのようになっていきます。おいおいわたしのなかで勝ち負けの話みたいになっているぞと。
これは中年のやばいやつじゃないか? 統覚機能の衰えではないか? と思って、ハッとなります。



── ゆえに、日々のトーンとして狙うところは



 団地のおばちゃんと、朝ナマの中間



このくらいのトーンでのひとり相撲を「言語」を使ってできるようになると、自分の中になあなあではない仲間ができたような、そんな広がりがでてきます。