うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

死の壁  養老孟司 著

帯に「死について考えておくと安心して生きられます。」とありました。

わたしは死を思うときに「わたしが死んでもわたしは困らない」という考えがあるので深く考えることがないのですが(悩んだり苦しむのは生きているから、と考えています)、その時間軸を少し手近なところへ引き寄せて、「一度目のインパクトのある病で死ぬのも自然なことじゃないかと思っている」などと言うと心がザワついてしまう人がいるので、こういう話はごく少数の親しい人としかしません。

 

インドでもタイでもベトナムでも、旅をしているととにかく交通渋滞がすごくて、一般人が救急車を呼んで延命をすることが可能とは全く思えません。

日本で暮らす感覚でみるとそれは不安な社会かもしれないけれど、それでも「ただ生きてる」という状態で居やすい状況を羨ましく思う気持ちがあります。

 

 

この本は漠然とした死の恐怖を乗り越える方法が書いてある本ではなく、日本の社会で死と生の区別がどこにあるのかが語られています。興味深い視点がたくさんありました。

生死の境界が死亡診断書にしか存在していないこと、脳死者から臓器移植をしていいというのは、どうせなら鮮度がいい臓器がいいという事情から決めたのに過ぎないと書かれている第三章は、"宗教観のないまま死について思いつめてみたところで、所詮こんなところでしょう" という事実が淡々と書かれています。

 

 

ご自身の仕事の立場ならではの歴史の紐解きもあって、杉田玄白が最初の解剖をやったことになっているけれど実際は当時(江戸時代)の被差別民で、学者がやったタイミングからが「解剖学」になっていること。それだけじゃなくて、杉田玄白以前に解剖を行った山脇東洋が “どんなに偉い人だろうが、内臓はみな同じ” と書いていて、近代的な科学思想も既にあった、こういう多角的かつ前向きな説明は、養老孟司さんならではの魅力。

 

 

日本のルールのあり方について、死刑について語られるトピックでこのように書かれていました。

国によっては宗教が暗黙のルールと強く結びついていて、それが死刑をしない大きな理由だったりしますが、日本ではそうではないように思えます。あくまでもそこにかかわるのは共同体のルールです。だからこそ、死刑についての議論を始めても、脳死同様、どこかモヤモヤしたものが残る。それは共同体のルールにかかわる問題だという視点が抜けているからです。

 共同体のルールにかかわることというのは、非成文憲法ですから、それを意識しないことで成り立っています。それをあえて表に出そうとすると厄介が生じます。

(死刑という村八分 より)

これはコロナのピークの頃に県外移動者へ向けられた視点の現実を見たときに思ったことですが、それを意識しないことで成り立っているものって、侮れないんですよね。婚姻のシステムがなかなか変わらないことでもわかります。

共同体のルールを守るために、家族から「帰省するな」と言われた人の話をいくつも聞いて、共同体が「生かしておくわけにはいかない」という方向へ傾いたときの力の大きさが侮れないから死刑は無くならない。そう思いました。

(わたし個人は死生観よりも「死刑にしたらわからなくなってしまうことがある」、という点と死刑を執行する人の仕事に対する観点から死刑制度に対しては反対意見を持っています)

 

わたしは理解というのは時間をかけてやってくるものだと思っていて、養老孟司さんの本を読んでいると、"時間がかかること" を自然に捉えているスタンスがうかがえます。

この本では終盤で、幼少期の頃の出来事(父親の死)について、だいたい謎が解けたと思ったのが40代になってからで、きちんと語れるようになったのは50歳を過ぎてからだと書かれていました。

 

自分の死を自分で理解することを生きているうちにするって、そもそも可能なんだろうか。「後悔」は生きているからできることで、生きている間だけの財産みたいなもの。

自分の意見を掘り起こすきっかけをくれるトピックがたくさんありました。