たとえば仕事を任されるとき、誰かから行事に誘われるとき、人間関係においてわたしが考え続けてきたことが、この冬に読んだ二冊の本によって進展しました。
東京で働いているというだけで、わたしはわりと多くの人と出会っているように思います。悪い人は刑務所にいる前提で言えば、みんな「善い人」。わたしは「いい人」という表現をあまり使いたくないと考えるところがあって(理由はこちら)、公平性について考えるほどしんどくなるマインドについて大きな組織にいるときからずっと考え続けてきました。
そんな10年以上の逡巡があって、ひとつのアイデアとしてここ一、二年のあいだに心に留めるようになったことがあります。
考えるべきは
わたしは誰からの信頼を得たいか
ということ。
この視点で「誰」を掘り下げていくと、さまざまなことがクリアになっていく。
これは、欲しがられたり消費される経験を経るとわかってきます。
この人がいればうまくいくと思って呼ばれることは誉れなことかというと、もちろん誉れなだけじゃない。若い頃は必要とされたり使えると言われることがとてもうれしくて、がんばっていました。でもいまはそのようには捉えません。
これが "いまどきのヨガの先生" という場面になるとコントのようにわかりやすく、よく知らない人から親しげな配置で写真を撮られ、少し話せばプライベートを根掘り葉掘り訊かれ、まるで追い剥ぎ。笑顔で対応するキラキラの先生は、わたしから見ると鋼のメンタル。
ただその瞬間欲しがられているだけの状況を認識するのはしんどいけれど、とても重要なこと。
わたしは誰からの信頼を得たいか
人間関係でモヤモヤするときは、この視点に立ち返る。
このほうが現代社会を生きながら随時人格のイメージ設計ができるし更新もできる。わたしはあこがれの人がみんな昔の人すぎて(この世にもういない)、「なりたいイメージ」を見つけるってどうやるのか、ずっとわからなかったんですよね…。
今日の話は、昨年読んだ二冊の本から大きなヒントを得て書きました。
ヒントをくれた本
▼「好き」と「欲しい」は同じではないことを教えてくれた本
▼誰の信頼を得たいか、と考える視点の重要性について教えてくれた本