うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ブランドに頼る性向は、せめて「モノ」までにしておいたほうがいい

グルのブランド、宗派のブランド、グルの死因、宗派の分裂やトラブルetc…、これらの情報を検索するワードの変遷をパソコンからスマートフォンの時代へ至るまでずっと見ています。このブログへの検索流入ワードを見ていると、それだけで「ポジティブであるべき場では口にされない現象」を知ることになります。知ろうとしなくてもデータとして示されるもののなかに自然に含まれている。

ブランド力に頼りたいと思いながら、その弱みを探す。ここに個人名が入ってくると一見ナマナマしく感じるけれど、今はその人がもうこの世にいないから結婚・離婚・再婚・妻・夫・子供・父・母・親などの関連ワードで探されていないというだけ。その変わりのワードとして「死因」があるのではないか。わたしにはそんなふうに見えます。

 


 品定めをしているときは、
 自分もまた品定めをされる存在であるということを忘れることができる

 


たぶんこれは一種の癒やし。
品定めをされる存在であるということを毎日意識しながら生きるのは、あらためて文章にするととてもしんどそうに見えるけれど、それが社会。それが日常。
友人のブログを読んでいたら、品定めのなかにある癒やしのメカニズムにとても自覚的であることがわかる一文が書かれていました。その友人は「そうしなければならなかった自分を少し可哀想に思う。」と自身のいつかの瞬間を振り返っていました。

年々、お天気の話や行った場所の話、食べたものの味の話がいかに実用的であるかを感じます。感覚の話は人間関係に色どりを与えてくれる。品定めの話はそれが癒やしを求めた結果であるという自覚があるかないかで色の透明度が変わってくる。

自分が品定めを口にするとき、「その話をしている、いままさに目の前にいるその人間が素敵か」という品定めを避けられない。
なんかこういうフレーズどこかにあったな…。

 

 

 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。ニーチェ

 

 

たぶんこれだわ。