「生きづらさを克服しようの会」って、なに。青春?
最近よく耳にする「生きづらさ」というフレーズ。これはなに。「生きづらさ」と「死にたさ」は直列つなぎにならない前提? と、その人の「生きたさ」の条件付けが気になってしまう。なんかどっと疲れる。
なのにこの小説は読みはじめたら途中でやめられない勢いがあって、一気に読み終えました。
前半は有名な小説『コンビニ人間』に出てくる白羽さんの人格を掘り下げたらこうなるとでもいうような展開で、よくこれ書いたなと思うほど。
話を盛ったり作り話をしてしまう人の内面の描かれ方も鋭く、なるほどこれが昨今言われる「生きづらさ」かと納得しました。盛っておかなければ尊重されないと感じる思考が「生きづらさ」の正体なのか。
自尊心を守るために自分を削り、その帳尻合わせのために盛りたくなる。そういう心理を描いた別の小説を思い出しました。
『夢を売る男』は、自分は割りを食っていると感じる弱さに漬け込む物語。
今回わたしが読んだ『死にたいって誰かに話したかった』はその逆で、自費出版ビジネスのカモになりそうなところまですらいかない、日常的にギリギリの人が他者と溶け合っていく方法を模索します。
オープンマインドって、ドアがない状態のことではなくて、必要なときに開くようになっているってことなんだな。読みながらそんなことを思いました。
冒頭に登場する主人公は、ドアを元気よくパーンと開けること=オープンマインドだと思いこんでいて、そこから物語がはじまります。
その人の親族のひとりが以下の発言をしたあたりから、わたしはこの物語に対してぐっと前のめりになりました。
一般論じゃなく、あくまで自分の話をするべき
質問の形で「こういうことって、ありませんか」「一般論として、どう思いますか」と交わす会話の虚しさったらないもんね。
このセリフも印象に残ります。
“女同士ならいいじゃない” っていうルールを受け入れられない限り、わたしはずっと一人なんだよね
このように自分は一人というマインドが立ち上がる瞬間を認めて向き合っていく過程が描かれるのですが、テンポがいい。どこまでも恨み節でねちっこく文字数を稼いで書けそうな題材だからこその抑制。
そっと適切にブレーキが踏まれるやさしいドライビングで物語が進みます。
ここでハッピー・エンドの展開になるとリアリティがないんだよな、と思う親子関係の場面できっちり現実を見せてくるところもいい。ここで現実を描くなんてすごいし、そう、そのリアリティを待ってた! と思う場面がありました。