うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

嫉妬の範囲が広いというのは、損なこと

ここしばらく、古くからの友人と再会する機会が続いた。
お互い家族を持ったり持たなかったり、仕事をしたりしなかったり、自己犠牲を大きく負ったり負わなかったり、恋をしたりしなかったりして、様々な逡巡の日々と平行して再会できる関係が続いている。
わたしは会ってもとくに報告するような人生のイベントがないのだけど、日々の出来事のなかで考えていることをこのブログに書いているので、そのフィードバックのように会うと友人が心の話をしてくれる。

ときどき読んでいて泣けてくる時があるよと言ってくれた友人は、彼女のなかにわたしの姿や声や日常の判断の数々が記憶されているから、脳内でイメージするときのリアルさで泣けてくるのだろうと思う。
20代30代の頃はこうやって苦しんだけれど今はこう考えるという話も、彼女の中ではきっと実写版だ。久しぶりに古い友人と話をしながら「昔はこんなふうにしたりしたけど」とわたしが言うたびに「してた。してたねー」という相づちが返ってきて一瞬うわっ、となることが何度かあった。

 

 

 努力を認めてくれる友人は、嫉妬の範囲を雑に広げてこない。
 だからわたしも、どんどん開く。共有する。
 ひとつの身体で経験できることは限られているから、共有しようと思う。

 

 

古くからの友人というのは、実際的に自分が古くならないとできない。
だから今日書く話は、20代30代の人にはまだ実際的に消費する時間が足りておらず、同じようにはわからないかもしれない。


「友人」と「知人」の境界は人それぞれだろうけど、いまわたしのなかでは「自分がこれまでにコツコツ積み重ねた努力を認めてくれるか」がフラグになっている。
昔から知っているとか同じ時間を共有したとか同じ経験をしたとか、それだけで言ったら40代にもなると、しかも団塊ジュニアのように同世代の子供が多かった人になると「ユニーク関係者数」という定義でいったらものすごい数になる。
そんな大勢の人たちが年数を重ねて、それぞれに巡り合わせを経験する。中年になると、その蓄積がわかりやすく顕在化する。1ミリも恥ずかしい思いをしたくないと思うなら、傷を隠しておきたいならひきこもるしかない。


友人関係を続けてくれる人と「じゃあまたね」と言って別れたあとは、寂しさと同時に勇気のようなものも感じる。努力と運と不可侵領域について、あの人も葛藤し続けてきたんだな…という思いを、わたしはいつも自分の中で勇気に変換している。同じ努力をしていない範囲にまで嫉妬の感情をぶつけてくる人とは関係を続けていくことができないけれど、そうでない人との関係は勇気に変換できる。

 

嫉妬というのは対象となる人の「日々の努力」を認めていないからできることだ、という考えがわたしにはずっとある。嫉妬の感情をたぎらせるには相手の努力を棚上げしたり、それに見合う悪材料を探すことに意識のリソースを割かないと成り立たないものだろうと想像する。わたしは誰かから嫉妬の感情を受け取ると、関係の継続はクロージングに向かっていく。自然にそうなる。あなたは恵まれていると言われることの土台が日々積み重ねた作業によるものであればあるほどそうなる。
あなたは恵まれていると言われることが、たとえば雪国で育ったからスキーがうまいとかそういうことであれば嫉妬されるのもわかるけれど、年齢を重ねてからの同世代への嫉妬はわけがちがう。ときに相手を認めていないという事実と直結しやすい。年月の積み重ねというのは、そういう残酷な側面を併せ持つ。
ここ数年、まるであぶり出しのように対人関係においてそれが示されるようになってきたと感じる瞬間が増えている。
こういうのは、いまふうの言いかたでいえば

 

 

 リスペクトがあるかないか

 

 

ということだろうか。でもいまわたしのなかにある実感は、そんなふうに気軽にカタカナにできないくらい、もっと重みがある。
わたしは親しみの感情が嫉妬と結びつく心の作用を、魔的なものによって巧妙に仕掛けられた罠だと思っている。そしてこの罠に気づきながら嫉妬の感情があることを表明できるというのは、とても高度なコミュニケーションであるとも思っている。雑に嫉妬をしたならば、その雑味をまずは本人が自ら味わって言語化する。嫉妬する筋合いはないのだとわかっているけど嫉妬するよと。

 

 

 なにがうらやましいって、
 打ち込めるものを見つけていることがうらやましいんです

 

 

これは10年くらい前に仕事仲間に言われたこと。こんな嫉妬の表明のしかたがあるものかと、当時はとても驚いた。嫉妬の範囲を最小限まで削ぎ落とすための作業をその人が心の中でしてくれたことがわかって、わたしを嫌いにならないための努力をしてくれたことがありがたかった。

なんとなく邪魔くさいぞお前という感情を雑にぶつけられたことに気づかないほど鈍感でないわたしは、こういう言葉に感動してしまう。
これを発言した人はわたしよりも若く当時まだ20代後半か30代前半だったけれど、とても精神的に成熟した人だった。これを言われる前から漠然と大人っぽい人だなと思っていたけれど、このときにその理由がありありとわかった。

 


中年になってから同世代の人の言っていることを聞くと、世の中には親しみの感情と嫉妬の関係性をジレンマとして抱える "意識の筋トレを続けている人" と、毎回エイヤッと投げ出したりワイドショーの情報を消費するように身近な人の情報を消費することで "感情を散らし続けている人" がいるというのがわかってくる。これは、あまり年齢と関係がないことのようだ。


いまのところの観察と振り返りは、こんなところ。ただ懐かしみの感情を快楽的に共有するだけじゃない、人知れずボソボソ話せる友人関係になれるのは前者の人だということがわかった。

 

わかったけれど、さて。
それはそれとして、まだまだ考えることがある。これから友人たちと共有していくジレンマも、それなりにコクのあるものになっていくだろう。こういう人間関係は、こうなってみるまでまったく想像のできないものだった。なんとも言葉にしようのないものだけど、そこには光と温度がある。友情に対する感謝の気持ちというのは、このくらい時間をかけて発酵させて、やっと見えてくるものなのか。


まったく別の人生でありながら、いまこうして友人と心の成長を共有し続けられるのは、双方が嫉妬の範囲をわきまえてきたからなんだよな…と、そんなことを再認識する瞬間がここ数週間で何度かあった。