うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

あと50年生きる、あと3ヶ月生きる。の両方を想定している


今年からいままでと違うフォーマットの手帳にしたのだけど、なかなか書き慣れません。
手帳を買うときも航空券を買うときも、そのたびに自分は3ヶ月後も生きている前提であれこれ考えているなぁと思います。


ヨガの練習を毎日します。構成や時間配分は変わるけれど、なにもしない日はほとんどありません。あと50年生きる乗り物を与えてもらっている可能性があるので、原付バイクのように毎日ちょっとエンジンだけでもかける、というような感じでやっています。気を通すような感じです。


これも練習の一部なのですが、あと3ヶ月しか生きないかもと思ってやっていることがあります。まだ日本語版が出版されていないハタ・ヨーガのサンスクリット語のテキストをこつこつ訳しています。英訳もついているのですが、韻を踏んでいるところは英訳だとわからないので、こつこつ分解して訳しています。一冊目は「GORAKSHA SHATAKAM」という書物を訳し、おととしから二冊目にとりかかっていますが、勉強の苦手なわたしにはとてもしんどい作業です。亀の歩みです。あと3ヶ月しか生きないとでも思わないと毎日こなしていけません。しばらく間を空けてしまうと、すぐに言葉の感覚を忘れてしまいます。
これは自分のクラスに参加してくれた人に何かを伝えるということの意義のようなものを考えたときに、気分がしらけないようにするために続けています。これだけ世の中にたくさんヨガ講師がいるなかで、今日の練習が参加者にとってわたしのリードである必要などないっちゃ、ない。そういう気持ちがわいくることがあるのです。そんなときに「大丈夫、わたしは今日も野菜を畑から掘り出してきているのだから、八百屋として人前に出てもよいのだ。八百屋と名乗ってよいのだ」と思うための、後ろ盾としての仕込みのようにやっています。


わたしは団塊ジュニア世代で、受験も仕事もずっとふるい分けの連続。いちいち傷つかないよう「変わりはいくらでもいる」という気持ちを忘れないことが初期設定のようになり、自己評価を低くキープするのが癖になっているところがあります。でも、じゃぶじゃぶ人が生まれた世代にはそのぶんアホな人もいっぱい。楽しい出会いがいっぱいなのがいいよね! とも思っています。


練習のスタンスというのは少しずつ変化していくものですね。それは生命の火の使い方を考えることとも似ているように思います。
初期(30代前半)はエネルギーの発散であったように思います。いまはエネルギーがわく量が減ったので、小さなタネ火をだいじに使うようにしています。使い方を間違えないように、うっかり消さないように、急に周囲を燃え散らかさないように。そんなことに注意が向くようになってきました。
自分の熱量を下げる案件や考えが後ろ向きな人とはなるべく関わらないよう、気をつけるようにもなりました。ぎらぎらする気はありませんが、ぼんやりする気はもっとありません。
これからどんなふうに変化していくのか、ちょっと楽しみでもあります。