うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ギタンジャリ ラビンドラナート・タゴール 著 / 森本達雄(翻訳・解説)


序文、註釈付きの日本語訳、英文がまとめられた一冊。手元にもうひとつ別の訳本を持っているので、森本版ギタンジャリとして読みました。わたしはインド人の書いた本をさまざまな日本語訳で読むのが好きなのですが、英文から日本語化されるときの微妙な違いのなかに、日本人がこの梵我一如感をどのように日本語化するのかを見るのがたのしみ。タゴールの場合はその微妙な違いが「神に話しかけるトーン」に現れており、こりゃたまらんねと唸るものは日本語と英語を書き写しながら読みました。
これがバガヴァッド・ギーターになると逆で、神(クリシュナ)がアルジュナに説法をするインプットのトーンのニュアンスをたのしむことになるのですが、やはり信仰する側の立場にひたるほうがうっとりできます。


この本はインド思想を多角的に学んでいる人に、解説がかなり参考になります。本編では日本語訳の後に註釈があるのですが、ひとつだけあえて逆の順番で引用紹介します。71番目の詩について。

▼註釈

 インド哲学の伝統的な課題の一つである「マーヤー」思想にことよせて、神と現象世界、無限と有限についての詩人の宇宙観をうたった思想詩。ちなみに、ヒンドゥーの最大の哲学者と呼ばれるシャンカラ(八世紀前半)によると、絶対者ブラフマンと我々個我の内奥にあるアートマンは根本的に同一であり、これのみが実在する真のものである。そしてこの絶対のブラフマンが無明によって創造したのが経験世界であり、そのために、この世界に属する個別的な多数の個我もさまざまな自然現象もすべて「マーヤー(幻影・迷妄)」にすぎないという。これにたいして、彼に継ぐ後の大哲学者ラーマーヌジャ(十一〜十二世紀)は、もろもろの個我も現象世界もたんなるマーヤーではなく、個我はブラフマンの部分であり、現象世界はブラフマンの表現であるとする。そして彼は、世界肯定の有神論的な立場に立って、最高神への熱烈な信仰(信愛)による救いを説いた。
 タゴールもまた、詩人の直感によって、おんみ(無限なるもの)は自らを限定し、この有限なる現象世界の数かぎりないものに形となって表われたのだと考えた。したがって、わたし(人間)は限定されたおんみの分身であり、それゆえにこそ、人間は自分自身の本源であるおんみを求めるのである。そして、この本源からの分離の悲しみが、色さまざまな涙と微笑、恐怖と希望の歌声となって、空いっぱいにこだまし、あるいは有限と無限の絵が、おんみの帷(カンバス)に無数の絵となって描かれているという。自然が美しく、人間がいじらしいのは、このためであろう。こうして、無限なるもの(神)は有限なるもの(人間)のなかに自らを表わし、有限なるものは無限なるものへの回帰を追い求める。タゴールはこれを、永遠につづけられる「おんみとわたしの隠れん坊」と呼ぶのである。

これは詩とあわせて読むととても興味深いのですが、タゴールの表現は空海さんに糸井重里さんのような表現テクニックを加えたような、そういうところがあると感じる。空海さんの梵我一如の説きかたはわたしはラーマーヌジャに似ていると思うのだけど、それをさらにもう少し主体的にかつ情緒的に引き寄せていくと、タゴールのようになりそうな、そんな気配を感じるのです。
そして、タゴールの詩を森本達雄さんが日本語化したものが、こちら。


▼71番目の詩

 わたしは 自分自身をいつくしみ、あらゆる方へと歩み入り、おんみの耀きに さまざまな色彩(いろど)りの影をなげかけなければならない ── それが おんみのマーヤー。
 おんみは ご自身の存在に 限りをもうけ、自分の分身を 数かぎりない調べで呼ぶ。こうして、おんみの分身が わたしのうちにも 形となって表われたのだ。
 心ゆさぶる歌声が 色さまざまな涙と微笑、恐怖と希望となって 空いっぱいにこだまする。波は 高まっては またくだけ、夢は 破れては またむすぶ。わたしのなかで おんみ自身 自らをうちやぶる。
 おんみが張りめぐらした帷(とばり)には 夜と昼の絵筆をもって 無数の形が描かれている。帷の奥では、おんみの席は、味気ない直線をかなぐりすてて 妙なる曲線の神秘で織りなされている。
 おんみとわたしの演じる大いなる回り舞台が 空いっぱいに くりひろげられる。おんみとわたしの歌声で あたりいちめん 空気がふるえる。こうして 時代は代々に おんみとわたしの隠れん坊で つぎからつぎへと過ぎてゆく。

わたしはこの本を読んで初めて「おんみ」という「You」の尊称表現を知ったのですが
特に最後の一行は、

  • おんみとわたしの演じる〜こうして 時代は代々に ←ここまで空海さん
  • おんみとわたしの隠れん坊で ←ここだけ糸井さん
  • つぎからつぎへと過ぎてゆく。 ←また空海さん


というような感じに見えて、ひとりでニヤニヤしてしまいました。


ヴェーダーンタ哲学を学んでいる人にも、かなり沁みる詩が多いのではないかと思います。
日本の「こんにちは赤ちゃん」という歌を100倍繊細に歌うとこうなる、みたいな詩がふたつあるのですが、わたしはこれらの詩がとても好きです。こういう詩が読まれる世の中であれば、少子化になんてならないよ〜と思います。
子育てをしている人や妊娠中の人は、ぜひ読んでそれらの詩を探してみてください。確実にしあわせな気持ちになれます。この詩を、男性が書いているのだからびっくりしちゃいます。