うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自殺について 他四篇 ショウペンハウエル 著 / 斎藤信治(翻訳)


本の題名になっている「自殺について」よりも、他の四篇がいい。すごくいい。
死に惹かれる感情を持ったことがある人で、「惹かれる」ということそのものについて掘り下げたことのある人は、どのくらいいるだろう。
ショウペンハウエルは、こんなふうに分解する。

 おそらくは誰もがかつて心の奥の奥の方に、折に触れて、次のような意識が浮びあがってくるのを経験したことがあるであろう、── このようないいようもなくみすぼらしい時間的な個体的な存在、全くの惨めさばかりの存在、ではなしに、なにか全く違った種類の存在が何といっても本来私にふさわしいものであり、それこそが本当に私のものなのではあるまいか、と。そうしてその際その人は、もしかしたら死が自分をそのような存在へとつれもどしてくれるのかもしれない、と考えるのである。

これは、この本に収められている一つ目の「我々の真実の本質は死によって破壊されえないものであるという教説によせて」の(6)での言葉。
そしてこの末尾にある「余興としての小対話篇」が最高におもしろい。コメディのようになっていて、やはり悟り以外の方法で二元論を越えようと思ったら、それは「笑い」しかないなのではないか、ということをあらためて思わせてくれる。


そして読みすすめていくと、この人はインド人? という感じになっていく。

 認識は、それ自体においては、いつも苦痛を離れたものである。苦痛は意志だけにかかわるものなのであり、意志が抑圧されたり妨害されたり遮断されたりするところに苦痛が成立する。但し、苦痛が感じられるためには、かかる抑圧に認識がともなっていることが必要である。
(世界の苦悩に関する教説によせる補遺 7 より)


 人生の指針たるべきたしかな磁石をいつも手もとにたずさえていようと思えば、また決して迷うことなしに人生をいつも正しい光のもとに凝視していようと思えば、そのために何よりも役立つことは、この世を償いの場として、したがっていわば一種の刑務所、徒刑地として観ずる習慣を身につけることである。── すでに最古代の哲学者達がこの世を労務所(エルガステリオン)と呼んでいたし、キリスト教の教父達の間ではオリゲネスが同じことを嘆賞に価いする大胆さを以って言いはなっている。こういう人たちのこういう見解は、実にその理論的・客観的保証を、ただに私の哲学だけではなく、一切の時代の智慧のうちに、即ちバラモン教や仏教さらにはエンペドクレスやピタゴラスのうちに見出しているのである。
(世界の苦悩に関する教説によせる補遺 9 より)


 ギリシャ人の倫理とインド人の倫理との間には著しい対立がある。前者(尤もプラトンは例外であるが)の目的とするところは、我々をして幸福な生活、祝福された生活 vita beata(ウイタ・ベアータ)を送るにふさわしい人間たらしめるにあった。これに反して後者の目指すところは、たとえば数論頌 Sankhya Karika の冒頭で直截に表明されているように、人生一般からの解放と救済にあったのである。
(生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺 2 より)

なるほど、そこで、サーンキヤ・カーリカーの冒頭につながってくるのかと驚いた。
サーンキヤはヨーガの理論のを受けもつ位置づけ。自分でも訳にトライしたことがあるのだけど(哲学のブログのほうに書いています)、この第一節を「解放と救済を倫理としている」というふうには言語化できなかった。でもわたしがヨガを一緒に練習する人に伝えたいことはまさに "幸福な生活、祝福された生活を送るにふさわしい人間たらしめる" ことを目的とした道徳教育、その延長でしか更新されていかない社会に救いを見出せないときに、別の思想もあるということ。
認識から救済までの一連の流れを読んで、なんてやさしい人なんだ、ショウペンハウエル。と思った。


この本のよいところは、物質社会も対等に見据えて語られているところ。
うなるどころではない。読みながらうなずきすぎて取れちゃった首を、もう一度乗せなおしたくらいの感じ。ガネーシャやアラレちゃんのような状態になった。

 幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。そのような英雄的生涯を送る人というのは、何らかの仕方また何らかの事柄において、万人に何らかの意味で役立つようなことのために、異常な困難と戦い、そして最後に勝利をおさめはするが、しかし酬いられるところは少ない乃至全然酬いられることのないような人である。
(生きんとする意志の肯定と否定に関する教説によせる補遺 12の補遺 より)


 文明の最低の段階を示している遊牧の生活は、文明の最高の段階において、普遍化した漫遊の生活となって再び現れてくる。前者は困窮から、後者は退屈から、生れてきたのである。
(世界の苦悩に関する教説によせる補遺 6の註釈 より)

困窮からも退屈からも生れてくるものって、ほかにもある。瞑想だって、断捨離だってそうじゃないか。


読書について」を読んだときはケシカラニズムのおっさんが本当のことを語りまくっている! という印象だったけど、なかなかどうして。
戯曲のように書かれたものもあって、薄いのに読み応えのありすぎる一冊でした。他の訳のバージョンも読んでみたい。