スマートフォンを持つ人が増えてから、こんなに写真を上手に撮れる人がたくさんいるのか! と思うことが多くなっています。
わたしは長くここでブログを書いていて写真を添えることもあるのだけど、単体で見て魅力的な写真は撮れません。文章と組み合わせたときにわかりやすいように撮るのがクセになっています。
そんな具合なので、一緒に行動をした人が同じ状況・景色を自分よりもすてきに切り取ったものを見て、すごく驚くことがあります。
そのたびに、自分に足りない意識の微細さってどういう性質のものなのだろうと考える。センスがないにしてもないなりに、「それは、どういった方向の?」というのが知りたくなる。
この人はいつもさりげなく撮っているのに、なんでこんなにセンスがいいの? と思う人って、いませんか?
わたしは先週のゴールデン・ウィークをそんな人と過ごしていました。ベトナムのハノイでヨガをされていて、何度か東京でお会いしたことのあるナオミさん。(⇒彼女のブログ「Under The Same Sky」)
以下は練習後にカフェで、ああでもないこうでもないと、うにゃうにゃするわたし。
このとき、こんな話をしていました。
うちこ:んー。なんか、どこを、どうしていいやら…。
ナオミ:ふむ。
うちこ:こういうのって、やっぱり、数こなすしかないのだろうなぁ…。
ナオミ:そう。撮って、撮って…ってやっていく。
まるでヨガの練習の話をしているかのよう。磨いていくものの共通点。
きっと続けていくと、より適切な選択が感覚的にできるようになるのでしょう。
そしてあらためて自分の撮った写真を見てみると、そのときの意識の混乱がそのまま丸めてドンと置かれているかのよう。
このコーヒーカップはこのように丸くて白くてつるんとしていて…、おしゃれだなぁ。と思っているのだけど、ぼんやりしています。
ぼんやりしながらも、そこにいろいろな情報を乗せたいという執着だけは、ちゃっかりあふれているのです。
- 向かい側には友人がいる
- 店内はほどよくお客さんが入っていて、うるさすぎない
- ヨガの練習のあとで身体はまったりしており、くつろいでいる
- このお店はパン屋で、すべてがおしゃれなパリ風のデザイン
- ベトナムコーヒーよりもやっぱりふつうのコーヒーが飲みたくて、それにありつけている今、わたしはうれしい
ほかにもいろいろな思いが自分の意識の中にあるのだけど、いずれにしても、このコーヒーカップと背景にそこまでの情報は背負えっこない。なんか、わさわさした気分を乗せようとしているんですよね…。わたしの意識に客観性が少なくなっている状態。もっと左に寄せて右の空間を大きくしたら、「ゆったり感」は出せただろうに。なんていまさら思っても、時すでに遅し。
写真をじょうずに撮る人は、きっとこういう瞬間に
見る人にとっては必要のない、あいまいな執着を剥がすような作業
をしているのですよね。
「写真を見てすてきと感じる」という状態は、そのときの自分ではなく未来の自分や他人のなかで起こることなのに、なにを捕まえようとしているのだろう。こういうときの気分は、まるでつかんだウナギがつるつる逃げていくかのよう。客観性をキープする基礎体力がないなぁ、と感じます。
以下はシビれる事例なのですが
⇒Instagramにあがっている、ナオミさんの撮ったロンビエン橋の写真
わたしもまったく同じ景色を見ていたはずなのに、なんでこういうことになってるの!!!
水平やクロスする線・比率の美しさに加え、ストーリーまで感じられる。非言語コミュニケーションがいっぱい。
こんなふうにアウトプットされたものを見ると、「そうか、彼女の頭の中にはこういう "ト書き" があったのか」と思う。
「非言語コミュニケーション×プラクティカルなもの」を共有するのって、楽しいね。