表紙の雰囲気に誘われて読んだ児童文学。アフガニスタンの孤児院の報告書にあった記録や実際にあった事件をもとにしたフィクションとのことですが、序盤は「おしん」の初期のようなストーリー。その途中で挟まれる、少女が母親から聞いた話の回想や脳内トークからイスラームの教えについて学ぶことができます。
児童文学だけど登場人物の特徴が大人同心の人間関係の縮図のようでもあり、けちな人、慈悲深い人、意志を持った人、さまざまな人の価値観や行動が描かれます。
状況がきついときに信仰を支えにする部分を読むと、人が宗教へ向かっていくときの気持ちがよくわかるのですが、なかでも以下の粘度と火入れの話は、とても印象深かったです。強いつぼをつくるコツは「火入れ」にあって、かまどから取りだすのが早すぎたつぼはすぐにひびが入って使いものにならないのだ、という母親の話を回想する場面。
そのとき、母はいった。わたしたち人間も、粘土なのだと。アッラーは、アダムを粘土からつくられた。そして、わたしたちはみな、アダムの子どもだ。わたしたちにとって、ものごとがうまくいかないとき、それが、火入れだ。早く火から出たくても、じっと火の中でがまんしなくちゃならない。ひび割れの心配がないほど十分焼けたら、アッラーが、ちゃんと取りだしてくださると信じて。(16ページ)
ヨガにも身体を器のように焼いて強くするような考えかた(ガタ・ヨーガ)があるけど、ここでは精神について強い粘土つぼの話がされています。
怒りの感情についての描写は、こんなふうに自分は考えたことがあっただろうか、というものでした。
こんなに泣いて、いったいなにが変わったというのだろう? なにが解決したというのだ? わたしの状況は何ひとつ変わっていない。そもそも、怒りなんて、自分で状況を変えることのできる人にしか意味がないのだ。(165ページ)
冷静にここだけ読むと、たしかにそうなんですよね…。この物語は一人っ子の少女が主人公なので、自分で状況を変えることがすごく難しい立場。親にとって便利に使えれば売れるし、使えなければ捨てられる。この設定で書かれると、「考えても意味がないから考えない」ということがすごく自然に感じられて、「考えないということに執着する」という方向へ流れる心のはたらきの背景を見せられた感じがします。
読んでいると昔の日本人女性もこんな感じだったのではないだろうか、と思うところが多いのだけど、以下のような考え方はやっぱりこの信仰の独特なところだと思う。
預言者の妻たちは、強い人だった。自分の虚栄心を、ちゃんとおさえることができた。わたしも、そんな人間になりたい。(232ページ)
この物語には、女性が抱く自尊心のありようがさまざまなバリエーションで出てきいます。
児童文学なのでかなり役割は勧善懲悪でわかりやすいのだけど、少女時代に色濃くある美醜に対する区別の感情にイスラーム女性の観念が重ねて書かれています。
中盤にある外国人との交流などは「スラムドッグ$ミリオネア」のようであり、あれよあれよという間にとっとと読まされてしまう。
戦争、成功不成功、貪り、アルコール依存、自尊心をあつかいそこねること、弱いものを犠牲にしてうそをつくこと、いけないと思いながら湧きあがる区別の感情、そして祈り。フィクションだけど、少女が「なぜもっとまじめに祈らないのだろう」という義憤を抱く瞬間などは感情として妙にリアルで、読み終わった後も、このリアルと感じる要素をあっさり「勇気をもらった」というようなフレーズで片付けてはいけない気持ちがしています。