うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

コーラン(上・中・下巻) 井筒俊彦 訳

先日「マホメット(Muhammad) / 井筒俊彦 著」を紹介しましたが、イスラームコーランもヨギには馴染みの薄い分野かと思います。
これまでインドや日本の宗教・哲学古典を読んで古い書物特有のノリに慣れたつもりでいたわたしなのですが、コーランのおもしろさはなんともハイレベル。その気のある人にぜひチャレンジしてもらいたいと思いまして、今日はその「面白味」にスポットをあてて紹介します。


クルアーンコーラン)はムハンマドマホメット)がアッラーの啓示を20年かけて受け伝えたものなのですが、その間にムハンマド自身が社会のなかでどんどん活躍し、成長していきます。イタコが戦術家に育っていくまでの物語が折り重なっています。


なにより、「アッラーのキャラクターと、ムハンマドの関係」が絶妙。アッラームハンマドをマネジメントする形の啓示でも、クリシュナとアルジュナの関係とはまた妙味が違う。親鸞役も唯円役も兼ねちゃってる歎異抄のような、「あれれ? これ発信者は、どっち?」というおもしろさがある。解釈の示唆までとことんきめ細かく、アッラーから啓示されます。
井筒氏も、この点については「純粋に楽しいから、しょうがないよ」と。

<上巻の解説より>
マホメットは第二人称であり、話しかけられる相手である。時には神の言葉はマホメットを素通りして、直接に信者たちに「お前たち」と呼びかけ、なだめたり、すかしたり、喜ばしたり脅したり、仲々面白い掛引きの妙を見せる。かと思うと急におそろしく威丈高になり、声を荒げて異教徒の「罰当りども」を呪詛し、嘲笑し、叱責する。骨をもえぐるような皮肉もあれば、仲々にユーモアの感覚もある。散文的だと言えば言えるが、しかしこれはまたこれで見方によっては普通の読物としてもちょっと例のない面白いものである。

「仲々にユーモアの感覚もある」って、これが、なかなかどころの話じゃありません。めちゃめちゃ面白くてコーランにハマっちゃった、という人にまだ会ったことがないのですが、これがツボに入っちゃう人が続出してもおかしくない。
わたしの感覚で、アッラーというお方は、こんな心意気とお力をお持ちです。

  • 『まごころが こもっていれば いいのだよ』というフレーズを末尾につけたらしっくりいくような、圧倒的なやさしさ。
  • 「細かいことも、なにげにいろいろちゃんと勘定しているから、安心せい」と、五つ星ホテル級の精度で民を見守る圧倒的なきめ細やかさ。
  • 「どうだ、やさしいだろ? 俺」と、ときに圧倒的なチャームで聞き手(読み手)心の近いところにいることを忘れさせない、圧倒的なジゴロ感。

とにかく圧倒的。「またまたぁ」と半分ヒきつつ、ハートは完全にわしずかみにされている。という状態に陥るひと続出の予感。


アッラームハンマドに接する際のスタンスにもバリエーションがあります。

(章句のなかの補記バリエーション例)

ややこしくて、おもしろい。



啓示のなかに、こんな語りかけがあります(特選して引用します)。

何もお前(マホメット)が、一々みんなの手を引いてやることはない。アッラーが御心の向いたものを自由に導いて行き給う。
(上巻「牝牛」より)

「お前もしんどかろ。ウンウン、わかるよ」と、最高の上司っぷり。

お前(マホメット)があの者ども(マホメットに従って戦いはしたが、心がともすれば動揺しがちだった人々)に優しい態度を取ったのも実は、言って見ればアッラーのお恵みであった(また、ウフドの敗戦のことを言っているのである)。もしお前がもっと苛酷な態度を示したり心を硬くしたりしたら、彼らはちりぢりになってお前のまわりから逃げ去ったであろうから。ま、ともかく彼らのことは赦してやるがよい。彼らのために(神の)赦しを請うてやれ。
(上巻「イムラーン一家」より)

と、マホメットさんを褒めつつ、褒め先もアッラーさんで、赦しの請い先もアッラーさん。なにもかもお見通しでめちゃくちゃ慈悲深いアッラーは、自分がいちばん忙がしそう。さすが性弱説の神、と思わずにはいられません。千手観音や久世観音と似たブーメラン技。

まったく一たんアッラーが迷わせ給うた人間は、もうお前(マホメット)にも助けてやりようがない。
(上巻「女」より)

「お前、間に入って大変だろうけどな、もうこうなっちゃったら無理よ。俺、無理」という大御所っぷり。



おもしろいでしょう。まだまだあります。

これ、汝ら、信徒の者よ、そうむやみに質問ばかりするものではない。はっきりわかるとかえって身の害になるものもある。だがそういう種類の事柄についても、もし汝ら、『コーラン』が下されている最中にお伺いを立てれば、説明して戴けよう(マホメットが忘我の状態に入っている最中に質問を出せば、わかるとかえって害になることでも自ずと神の答えが下ってしまう)。
(上巻「食卓」より)

「うっかり聞いたら怪我するぜ。知らぬが仏(仏じゃないけど)」という天啓。これはシビれる。

みなは、お前がまるでその内情に通じてでもいるかのようなつもりで質問して来る。言ってやるがよい、「それはアッラーだけが知り給う」と。だが大抵の人はこのことを知らぬ。
言ってやるがよい、「わしは、自分の利益や損害すら自由にできない人間。すべてはアッラーの御心まかせ。もしもわしに目に見えぬ世界のことがわかるくらいなら、わしは大いに得をとって、不幸には一切遇わずにすんだことであろうよ。わしはただ一介の警告者、そして信仰深い人々には嬉しい便り(天上からの福音)を伝える使者であるだけのこと。
(上巻「胸壁」より)

「でも俺、ただの使者だし……」という代弁のような章句はとても多い。

(暫く天啓が途絶えると)すぐ彼らは、「どうしたわけかねぇ、少しも神様からお徴が下らないのは」などと言う。言ってやるがよい、「目に見えぬ世界のことは一切アッラーの統べ給うところ。ま、少し待って見るがいい。わしもお前たちと一緒に待って見ようよ」と。
(上巻「ユーヌス」より)

「わしもお前たちと一緒に待って見ようよ」と言えという「天啓」は、ひとりのときに降りたのかどうなのか。マンツーのインプットじゃないとネタバレ感がある状況なのだけど!

されば、汝(マホメット)はただ命ぜられることだけを宣言しておればよい。多神教徒どもに構うでない。
(汝を)嘲笑する者どものことは、我らにまかしておくがよい。
アッラーとならべてほかの神を立てたりしているが、いまに必ず、思いしらせてやろうぞ。
彼らの言う言葉をきいて汝が胸をつまらせておることは我らにはわかっている。
(中巻「アル・ヒジュル」より)

最後のフレーズが、泣かす……。

またクルアーン(『コーラン』)には幾つも区切りをつけて、汝(マホメット)が間を置いてみなに読誦してやるに便利なようにとりはからっておいた。さればこそ、それを啓示するにも、少しずつ次々に啓示して行ったのである。
(中巻「夜の旅」より)

まさかの構成ポリシー啓示。

これ、すっぽりを衣ひっかぶったそこな者、夜は起きて(勤め行につとめよ)、僅かの(時間ん)をのぞいて。
半分(夜の半分)か、それより僅かに多い(休息の時間)をのぞいて。(あとは)ずっとクルアーン(『コーラン』)をゆるやかに読誦しておれ。
(下巻「衣かぶる男」より)

注釈に「最初の頃、マホメットは天啓が下りそうになるを着物を頭からすっぽりかぶってしまう習慣があったという。しかしこの箇所はただ着物をひっかぶって寝込んでいるマホメットを神が呼び起こすところかも知れぬ」とあります。
わたしはこの部分で、「おい、猿」と言うときの三蔵法師を連想しました。



コーランはアラビアの原文でこそ聖典で、外国語に訳されたら一つの俗書」と井筒氏はおっしゃる。アラビア語コーランが「まるで美しい歌」にしか聞こえなかったわたしは、その中身がこんなことになっちゃってるの?! と、俗的に楽しんでしまいました。

ムハンマドの成長を追いながらその啓示の粒度や精度を追うもよし、ムハンマドの「No.2的な中間管理職っぷり」に同情しながら読むもよし、アッラーのジゴロっぷりに翻弄されるもよし、アッラージャイアンっぷりにニヤニヤするもよし、またそのツンデレ波状攻撃に疲弊するもよし、法学の参考書として読むもよし、歴史背景を大河ドラマ的に楽しむもよし、どこから見ても、多面的におもしろい。
信仰のこと、聖書のイスラーム解釈、礼儀や品性、嘘つき呼ばわりされること、噂話をする悪、取り引きのしかた、施しのハウツー、男と女のこと、男色への言及などなど、具体的なトピックのオンパレード。


ハッとさせられるような章句、なぐさめられるような章句もたくさんあります。
食わず嫌いせずに、ぜひ自分の心で味わってみてください。


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