うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

脳は絵をどのように理解するか ― 絵画の認知科学 ロバート・L. ソルソ 著 / 鈴木光太郎・小林哲生 (翻訳)


感覚器官が拾って知覚するその中間と、器官をひとまずおいておいた場合の知覚のオン・オフ、そして知覚の後に起こる脳との連動について、インド人は観察だけでよくぞここまで言語化したものだとわたしは日々思うのですが、この本はそれを美術の理解のプロセスに沿って分解しています。
わたしはアーサナの説明が独特といわれることがあるのですが、それは「こういう表現を使うと、こういう解釈の仕方をしようとする脳のはたらきによって、身体はこう動くだろう」という予測の元に話しているから。思考の軟化という視点でアプローチしています。
こういう表現の選び方は過去に行ったデッサンの訓練の影響ですが、その答えあわせのようにこの本を読んでみました。


この本の最後のほうにあった以下の文章は、わたしがヨガの練習中に絵画との共通点を感じる理由にすごく近いものでした。

 科学者も芸術家も、人間の心にとって意味のある世界をエレガントにとらえようと夢見ている。心の「内的」世界と科学と美術の「外的」世界とは、真理と美とを探求する人間の心の物理的・哲学的表現を通じて、結びあわされる。科学も芸術も、心が生み出すものだ。それらは、心がもつ特質であり、それら自体が心そのものなのだ。表面的には、私たちは、美術や文学、音楽、思想、科学を「理解する」のだが、核心では、こうしたすばらしいものの中に露わにされた私たち自身の心を見るのだ。すべてをつなぎ合わせる共通のものは、心である。
(313ページ 9章 神経ネットワーク/コネクショニズムモンドリアン より)

この部分と、夏目漱石の「三四郎」に出てくる画工の原口さんは、同じことを言っていると思っています。

(以下、終盤の原口さんのセリフ)
画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世(みせ)を出しているところを描くんだから、見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。

(ちなみに「草枕」という小説は主人公が画工なので、作品を通してずっと、この論理で進みます)



ヨガと美術と夏目漱石の文章は、わたしの中で起こる波紋がよく重なります。「デフォルトな推論」への問いの立てかたが似ているように思います。

「推論」はどのように固められていくかと考えたときに、視覚の占める割合はすごく大きい。(わたしが喋りながら手本を見せまくるのも、そのためです)



網膜のこれらの受容細胞は、神経化学的な作用によってほかの細胞と相互作用しあう。たとえば、ある処理は促進され、ほかの処理は抑制されたり、最初に線、エッジ(縁)、輪郭、コントラスト、色が処理される。これらの最初の過程は、意識のコントロールなしに、自動的にはたらく。
(1章 大きな窓─視覚の科学 情報処理モデル より)



中心視の視野は狭いため、ここの注視ではっきり見える範囲には、明確な限界がある。この走査と注視がほんの短い時間で起こるため、私たちは、絵全体を一度に見ているかのような印象をもつが、実際には、その知覚は一連の個々の「スナップ・ショット」から作り上げられるのだ。
(1章 大きな窓─視覚の科学 動的な視覚 より)



目と脳は、エッジと線を検出するのにすぐれており、一見さりげないやり方でこの種の情報を処理する。そのため、私たちはエッジと線が「現実世界」の単純な構成要素だと思ってしまう。逆に、数学を理解したり文章を読んだりする過程のほうは、できるようになるための訓練に時間がかかるため、複雑だと思い込んでしまう。
(3章 形の知覚 ガンツフェルト より)



 三次元世界で生きる生物にとって奥行き知覚はきわめて重要であり、大部分は動きの手がかりによってなされている。このことは、私たちの目がほとんどたえまなく動いていることからも明らかである。もし目の動きで足りなければ、頭が動く。これらの動きは、自分がどこにいて、見えている対象がどこにあるのかを教えてくれる。
(7章 遠近法 動きの手がかり より)

ここまでは、ヨガで言うと知覚器官と視覚の話に近い。
以下は、思考器官・マナスの話に近いところ。

 もしあなたが友人と美術館めぐりをしたことがあれば、美術作品の解釈が互いに大きくくい違うということを経験しているだろう。プロの美術評論家の間でさえ、際立った違いがあるのがふつうである。私たちはそれぞれ、世界に関する情報の厖大な記憶をもっている。高次の近くは、その人間の過去の経験や知識(個人的な「大脳百科事典」ともいえるもの)によって決定されるので、モナ・リザの微笑みに対するあなたの見方は、おそらく私の見方とは異なるはずである。
(5章 文脈と認知 モナ・リザを見る より)



 人間の情報処理システムは、長期記憶の中の組織化された情報にもとづいて処理を行っているように見える。こうした情報の組織化と、この組織化の使用や組合せを支配する法則は、「スキーマ」と呼ばれている。スキーマは、対象、風景や考えの構造を表象している。
(5章 文脈と認知 スキーマ より)


すべての人間の脳の中には、人々、対象、ものごと、概念などの集合的なイメージあるいはプロトタイプがある。私たちはこの世界を、たくさんの仮説を通して見る。私たちは、必ずしも対象が実際見えるようにではなく、対象がどのように見えるはずかという、すでにもっている考えによく適合するように対象を見るのだ。
(7章 遠近法 死せるキリスト─横たわった人物を描く より)

ここは「思い込み」にも通じる部分。

この本には、レオナルド・ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」の下絵に3年かけているという話が出てきます。認識をつくるという観察者の視点について書かれているのだけど、相手に認識を与える行為をまさにしようとしているという自覚のすごさにおののきます。
絵を描くための訓練を受けた人の目の動かしかたについても、実験事例の紹介がありました。