うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「耳をダンボにする」という表現が、とてもインド哲学的にきこえる


若い人は使うのかわかりませんが、わりとわたしの周辺で使う人の多い表現に


 耳をダンボにする


というのがあります。
ある特定の話題が気になって、そっちに集中して意識が向かう様子が、まるで耳の形をダンボのように大きくしているというイメージ。
実際、耳が大きくなるわけではないことは、もちろんみんな知っています。
でも、ダンボになるのです。


実際に大きくなるわけではない「器官としての耳」と「その目的を持つ主体」を分けて定義するような考え方が、インドの哲学の中にあります。

  • 器官としての耳 = 知覚器官(jnana indriya)【参考
  • 耳を大きくする目的をもつ主体 = プルシャ(pursa)【参考

たとえば自分がコーラス隊で低音パートを歌う前提で課題曲を聞くときは、低音をとりにいくように聞きます。そこにフォーカスをあて続けます。カフェの隣の席で聞こえてきた会話に "自分が気になっているお店" の名前が登場して、思わず聞き入るというような経験だと、もっと身近かな。


耳がダンボになるときは、

  • 事前にそのお店の名前が自分の記憶のなかにストックとしてある
  • たくさんの音の中からそのお店の名前の音の並びが耳に入る
  • その情報をもっと、もっとと求める

ただ音として入ってきたものに対して、目的が紐づいた状態になります。


目の場合は、あのへんで確か右折だったよな…と思いながら二つ先の信号を見ているときに、目の前の信号の状態をスルーしてしまったりします。「信号を見ていなかった」といわれたらそうなのですが、細かく言うと、その色と距離は知覚器官が範囲に入れていたけれども、プルシャが一緒になっていなかった。(目的としていなかった)

「この道路交通法のある社会の中で、こうする」という統制をし続けることの必要性みたいなものがあって、それは目的を一時的に創造し続けるような、そういう意識のはたらかせかた。日常のなかで、それを繰り返している。
わたしは「純粋意識って、わたしの暮らす社会ではアホという定義になることもありそう」と思っているところがあって、インド思想を学んでいても、そういう疑問はそのままにしています。なので、神話学と結びついたスピリチュアルな話を聞くよりも、「耳がダンボになっちゃってさぁ〜」なんて表現を日常で聞くときのほうが、「おおっ」となります。
自己ってなぁにと言われたら、耳がダンボになることのある、実際にダンボではないあなた。とでも言ってくれたほうが、わたしの場合は自分の中でしっくりきます。


▼2019.08.19 追記:別ブログで細かく解説しています
yoga.hatenablog.com