うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ドロッドロの自我の海へダイブ


ここ数年、このブログを読んでくれた人と、たまに「読書会」というのをやっています。先日も関西でいろいろな人と話をしてきました。
読書会は2年前に関西でスタートしたのですが、毎回細かく変化しています。
開催を重ねて思うのは



 自分の中に深く潜ることをせずに、
 愚痴でも傷なめでもない話法で、支配や執着ではないありかたで
 他人と対話をすることなど、できないのではないか。



ということ。
先日の関西でも、各自が自分の意識の中に深く潜るための練習をしているな…、と感じる瞬間が何度かありました。
読書会は2014年1月からはじめましたが、過去の自分の説明を聞き返すと「文学の話をしようという場ではありません」とか「ものしり会ではないので」などと一生懸命になにかを伝えようとしていて痛々しい。「なにか」というのがスパッとわかりやすいフレーズにできない。
むりやりイケイケな感じで要約するならば



 一緒に、ドロッドロの自我の海へダイブしよー。おー!


ということ。
思い込みにしばられて悶々としている友人に「ひとりで抱えないで」と言うのは簡単だけど、それだけになってしまう感じがやりきれない。そんな経験はありませんか? 自分が苦しいときに、どこかで聞いたようななぐさめや同情の言葉よりも、そうでない部分で発せられたフレーズがポジティブに響いたことは、ありませんか? わたしはあります。
「抱えないで置いておくとして、さて。その荷物、けっこうデカいね。物体のその感じは、わかるよ〜。そりゃ、目に入っちゃうよね」くらいは言える。そしてこういうときのほうが、「感謝」「愛」「平和」「寄り添い」というフレーズで語る空間よりも、もう少し相手に近づけている感じがする。



 あたしの沼、そうとうぬかるんでると思ってたけど、
 あなたのとこも、そこそこ、ドロドロね。



と、一緒に二元相対を超えていく。今回も関西でそんな瞬間がたくさんありました。
体感としては、渋谷のスクランブル交差点を、わざとゆっくり時間をかけて一緒に渡っているような。
これは、混沌の中を渡る練習だったのかもしれない。


帰ってからしばらくたって、こんなことを思いました。
自分の中に深く潜るのって、勇気がいるよね。