うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

夢を与える 綿矢りさ 著


前半はじりじり進み、後半はジェットコースター。
これは家族の確執小説? アイドルの光と影小説? お仕事小説? 恋愛小説? いろいろな印象を持つけれど、「綿矢りさ先生の説くメディア論」という感じがする。
「ありそうだ」「いや実際そうなのだろう」という気分で最後まで引っ張られる。周囲や自分自身を客観視できなくなっていく過程の描写があまりにも精密で、読みながらいろんなタレントの事象が思い浮かぶ。普遍的なところを描いているから、最終的にはなんだか授業を受けたような気分になりました。

これまで読んだ「勝手にふるえてろ」「かわいそうだね?」にみられるようなギャグはない。そうだ、これはギャグがなかった。まじめだ。おもしろい会話として、タイトルの"夢を与える"に関連して「農業をしている人が、"米を与える" って言わないよね」みたいなフレーズは出てくるけど、なにかをきっかけにスイッチが入ったような、まくしたてる場面がない。
主人公に激性があまりない。純性から鈍性への移行がゆったりと描かれる。


 静かに狂う感じが、あまりにリアル。


これはたいへん個人的な話になるけれど、ヨガのインストラクターなどをしていると、純粋でナチュラルなイメージを求められてそれに応じようとしているうちになにかが沸点に達するのか、結果的に辞めていく人を一定の比率で見ます。
この小説は過去に何人も見てきた、そんな「イメージに応じようとする人たち」を思い出させるものでもあり、そういう意味でエグかった。
恋愛に逃げる点もリアル。もうどうでもよくなるときは、いきなりなっちゃうんだよね。長いものに巻かれていない個人プレイヤーがかっこよく見えたりするのだ。そうなのだ! そうなんだよ綿矢りさーーー! なんて友達でもないのに呼び捨てで叫びたくなるような、「あなた、どこまで現実を見てあきらめてきたの?」というリアリティ。

日常会話というのはすごい。さすが十年以上もの月日をかけて作られてきたものだけあって、ちっとやそっとではくつがえらない。日常会話は会話をする者どうしの "日常を保ちたい" という強い思いさえあれば、たとえ目の前に死体があっても、それを消し去ってしまうのではないか。
(5章/ちっと は原文どおり)



 向いてはいないけれど、選ばれた。そうつぶやいては虚栄心を自分でくすぐり、自信の糧にした。
(9章)



しかしあげるとかあげないとかではないのなら、じゃあ結婚というのはなんの意味があるのだろうか。人が人のものになることが永遠にないのなら、人はなぜ結婚するのか。
(11章)

ふとこういう考えが浮かばないのは、しあわせなのか、ばかなのか。そんな思いがずっとつきまとう。


 分ったことがありすぎて脳みそが追いつかないくらいだ。頭より先に私の皮膚が理解するだろう。私の皮膚は他の女の子たちよりも早く老けるだろう。そしてすべて分かるということは、ほとんど一度死んだのと同じことだ。
(13章)

ここまで読んで、わたしは「他の同世代よりも早く老けるだろう」くらいの認識を持っている人がすきであることに気がつきました。中年といわれる年齢になっても、この小説の中にあるような意味で一度も死んだことのない人の想像力は、あまりにも幼稚で暴力的だから。



テレビを擬人化した以下の描写は、すごく引き込まれる。

 テレビ、この小さな箱は、小さいくせに点いているだけで本当に簡単に部屋全体をのみ込む。人が横で鳴っているテレビを完全に無視できるのは、いっしょに横でテレビを見ていた人間と深刻なけんかが始まったときだけだろう。もし自分がテレビの眼になったら、部屋にいる人たちが弛緩しきった顔で何時間も自分を眺めていることにびっくりするのではないだろうか。テレビは人間ではないのに、部屋に生の人間がいたとしても、生の人間以上に注目を集めていて、それが普通だと思っている。テレビはうぬぼれている。
(10章)

最後の一文が、よいのだよなぁ。

この小説はメディア論と思って読むと、鋭く沁みるところが多いです。


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