聖書や神学、シェイクピアなどの古典や歴史を引き合いに出しながら裏切りのバリエーションを見せていく本。
イタリアの学者さんの本なのでエンタメ的なおもしろさはないけど、西洋人の考えかたに意識を合わせていくときにこういう本を読んでおくと話しやすいと思う。
これを読むと、この本のなかにあるやり方では分類できない "裏切りとみなされるなにか" が日本的な束縛であることがわかります。消去法の消去リストとして読むような。
それはさておきがばっと自分の日常に事例をひきずりおろしてこの本の感想を書くと、お稽古事や転職にまつわるあれこれで「これ、ほんとそうだよな…」と思うことが多数ありました。
- 誠実とは他者の利益や他者に対する忠義心に向けられたものではなく、関係の維持に向けられたものなのです。(P25)
- ひとたび裏切りが認識されれば、すべての出来事が裏切りの証拠にはやがわりする(P36)
- 「どうして裏切ったのか」と聞かれたところで、すべてを説明しつくせる答えなどありません。ただ、人間の複雑さや両義性を深く考えてみてくださいと誘ってみるほかはないでしょう。(P180)
- 裏切りの可能性を認識することは、絶対に誤りのない決定的な自己認識や他者認識などを幻想にすぎないと気づかせてくれる力を持っていて、自己が他者についての認識は大雑把なものであり、間違い、曖昧さ、幻想に満ちたものだと教えてくれます。(P182)
もう以下のような考え方しかないのでしょうか。
他者の変化を受け入れるところでのみ、あるいは自分を再定義し、関係を再定義するための挑戦として変化が受け入れられるところでのみ、変化が裏切りとみなされることがないのです。しかしこれを可能にするためには、変化する、変化しつつある人が、自身の変化を隠したりせず、他者を巻き込む必要があります。
(40ページ 「もう君が誰なのかわからない」裏切り者への非難の言葉 より)
この最後の「他者を巻き込む必要」ってところがむずかしいんですよね。
この本は普通では知ることのないような海外の本の引用が多く、以下のように政治学者の本からの引用もあります。
些細なことにいちいち裏切られたと感じて傷ついている人には、このような記述が役に立つと思う。
つねに、そしてどこにでも、懐疑的な知性が介入すべきである。自暴自棄になるのを抑え、厭世観が蔓延するのを予防するために。とりわけ、自由主義的な秩序が破壊されて、裏切り者に対する復讐心で凝り固まるといった状況が引き起こされるのを阻止するために。
(ジュディス・シュクラー『Vizi comuni(よくある悪癖)』より)
「自分を疑う」って、ほんとだいじね…。「これであってますか?」とよくよく考えずに他者に尋ねる甘えを抑える知性も。
見た目はライトな自己啓発書っぽいカバーなのですが、中身は研究。文学や芸術からの引用が多いのがイタリア人教授ぽくておもしろいです。
この本を読みながら、日本でイタリア料理のレストランを経営するイタリア人に質問されたこんなことを思い出しました。
イタリア人は、無料の試食会だといいことしか書かない。
日本人は、無料の試食会で悪いことを書いてくる。
イタリア人とまるで逆なんだ。なんで?
わたしはこのとき、「サービス改善のために有益なことを書かなきゃ、みたいなことを考えるんじゃないかなぁ」なんてもにゃもにゃと答えたのですが、これもまた裏切りの定義の違いなのかもしれません。施しのカルチャーのなさとか「タダほど怖いものはない」の恐怖がゆきすぎて一周しちゃうとか、いろんな心理があると思うのですが、日本的裏切りの定義はややこしい。
でも世界基準はたぶんこの本にあるくらいのこと。イタリア人の根っからのおしゃれさを見習う意味も含めて、このくらいにしておかないとまずいぞ。みたいな感じで読むのによい本だと思います。