うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「あこがれ」の比重を保つこと

先日「あこがれ」という小説についての感想を書きましたが、近ごろ「あこがれ」の比重を保つことの大切さをあらためて思うニュースをいくつか見たので、このキーワードから少し考えを巡らせてみました。
「あこがれ」という小説には主人公が二人いて、小学生です。物語にはそれぞれが「あこがれ」の対象に会いに行くエピソードを含んでいますが、ふたりとも意思のなかの「あこがれ」の比重がしっかりしていて、少しも支配欲に転移しない。このバランスがとにかく愛おしい。子どもが純粋だというのなら、きっとこういうことだろう。
こういうバランスを失ってしまうことは支配欲を制御できていないということで、それはいろいろなことをつまらなくしてしまう。せっかくはじめたなにかの勉強や趣味であっても、たまに



 (◯◯を得られないなら)もういいかなって感じ。
 向いていなかったのかな。もともとそんなに好きじゃなかったかも。



こんな「あこがれ」の比重をいっきに欠いてくフレーズで、魔法がとけていく様子を表現していく人がいる。去る人の視点と口調が「あきらめた」でなく「目を覚ました」というトーンであればあるほど、ちょっと猟奇的な素養を持って取り組んでいたのかなと思う。
ヨガでも何度かこんな感じで離れていく人を見たことがあるけど、わたしは練習自体は楽しく続けていて、練習そのもの以外のことは環境だから、そりゃ変化に影響されもするし楽しくない要素もあります。それでも支配の対象を自分自身以外に向けなければ、ずっとあこがれサイドにいられます。
初対面でも一緒に練習をしながらわくわくする人を見ていると、その人もあこがれサイドの光を見ていると感じます。いきなり仲良くなれる鍵はたぶんここにある。


仕事でも勉強でも趣味でも、習熟するものは「あこがれ」を培養しながらドカンとわかりやすく得るものを期待せずむしろこわがる、というのが光の中で続けていくコツであるよなと、巡らせた考えはこんな形で一周しました。子どもの頃は、なんでもこんな感じでできていたのにね。