うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

説教したがる男たち レベッカ・ソルニット著 / ハーン小路恭子(訳)

20代からいままで、頼んでもいないのに講釈をはじめる男性について「男の人はおだてておけばいいのだから、適当に相手をしておけ」と年上の女性からアドバイスを受けることが何度かあった。そのアドバイスもまた講釈であるのだがと思いつつ、内容には異論がない。いまこの考えを口にすると同世代の女性から驚かれることがある。でも理由を話すと納得してもらえたりもする。

 

わたしはこういうのには連帯セキュリティ対策のような側面があると思っていて、その人のなかから湧いてくる「支配させろ!」という気持ちが別の方向で溢れてしまったときに、自分じゃなくても誰かが犠牲になるかもしれないと思うと、ここで少し請け負うかという気になる。
自分がまだ少女や子どもであった頃、漠然と「偉そうにさせろ! 支配させろ! コントロールさせろ!」という気持ちが溢れてしまった人をなだめてくれたのは、それがわかった大人たちだった。


なのでわたしは20代の頃から今までずっと、いろんな場所で喋りたがりの人をときどきおだててきた。そうやって調子を合わせるからつけあがるのだという人もいるけれど、調子を合わせることで防げる未来の悲劇のほうが多いかもしれない。それは計りようがないし証明のしようもないのだけど、ただ願掛けのようにそうしてきた。子どものころにそうしてくれた誰かへの恩返しのように。


身を護るために黙り男性をおだてることは、わたしのなかでは処世術というより養生訓に近い。こんなことを言ったらいまの meetoo のムードに水を差してしまうだろうか。それでもわたしは、満たされない支配欲の問題を棚上げしたフェミニズムは不完全な気がしていて、それは現実として怖いと感じる。

わたしの知人女性にも、あのときなんとか逃げることができたけど生き延びたのはたまたまかも…、という経験をしている人が何人かいる。それでも人生を楽しみたいから出かけていく。


そのためだけではないけれど、わたしは身体を鍛えている。回し蹴りなんてかなり速いほうだと思う。腕立てだってしてる。なんなら腕の間の空間に両脚を通すことだってできる。いっぽうで、言葉を武器にするのは危険だと考えている。
言葉のほうは、そんなこんなで一周回って

 

 

  講釈したがりの男性のことは、おだてておけ

 

 

ということになっている。わたしの場合、ここに着地する。
この本の著者も黙っておくとことにしていた機会はたくさんあるようで、冒頭はそのエピソードから始まっていた。


中盤で一箇所、よくこの恐怖感を数行で書くなぁ…と思った箇所があった。

欲望を抱えて女に近づく男は、同時にその欲望がはねつけられるかもしれない可能性を思って、あらかじめキレている。
(35ページ 「あなたを殺す権利があるのはだれ?」より)

「あらかじめキレる」という思考自体は自分が傷つかないための知恵で、わたしもやる。だけどあらかじめキレておくことで自分が乱れてしまう事故を防ぐのではなく、あらかじめキレておいてさらに本番で力を発揮するパターンはタチが悪い。これは知恵ではない。その「さらに」に暴力が乗ってきたら、弱い側はひとたまりもない。目の前の人が事前にシャドウ・ボクシングしてきてるなというのがわかっていても、対抗できない。この無力感を認めたときに、わたしはしぶしぶ言葉を使う。
わたしが世間知らずのために…、わたしの理解力が乏しいために…、のあとに続く言葉をたくさん用意する。どんなに鍛えても武器を持っていなければ、ひたすらクッションを厚くするしかない。それしかできない無力感。だってどんなに鍛えても初期設定値のパワーが違うんだもの。

女性が無力感を言葉にできるようになっているということは前に進んでいるということだと著者は言うけれど、そうだろうか。わたしにはまだよくわからない問題だった。

 

説教したがる男たち

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