先日対話型の講座でお会いした人が、あとでちょっとおもしろいコメントをくれました。
死ぬまでにどれくらい頭ん中をアンインストールできるか、そういう気分になりました。
こんなふうに、自分が講座にこめた思いが他の人のフィルタを通した言葉で返ってくると、そこからまたわたしは考える。
なぜにこんなにもこのコメントが刺さるのか。
アンインストール
こういう感覚は、自分のこころに深く潜って汚いものも見てこないと出てこない表現なので、ぐっとくる。
「刷り込み」「インプット」などの言葉を使って陰謀論のように他人のせいにしたりふてくされたりするのは簡単だけど、パッケージ商品で買ったばかりのPCにいろいろなものがインストールされているのは「なんとなく」の集積で、買う人もそれを「なんとなく安心」として買っている。
立ち上げた画面にこのアイコンを置いてとりあえずクリックするようにさせてしまえ、うっしっし。と、いくらマイクロソフト&インターネット ・エクスプローラーが仕込んでみたところで、自分で選ぶ人は自分でブラウザを選ぶ。それに対して「騙されないぞ!」と意気込む人だってなにかをインストールするわけで、結局インストール。その繰り返し。
場の空気への適応アプリを意識の中に日々インストールしているわたしたち。使わないものはアンストールすれば軽くなるのに、キープと削除の確認選択をせずにそのままにしてしまう。
こういうことは、断捨離よりもアンインストールというほうがしっくりくる。
同時代に生身の人間と同じ言語で話して学ぶのは、楽しいものですね。