うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

コミュニケーション断念のすすめ 信田さよ子 著


すごくライトなエッセイだったけど、明治時代以降にできた法が家庭に立ち入らないものだから、有利なのは男性であり親であるという話が出てくる序盤からいきなり引き込まれました。
わたしは「話せばわかる」というのは、形式としての意義はあっても中身自体は幻想であることが多いと思っているので、この本を読んで気分がラクになりました。
女性誌の細かいターゲティングを例に指摘する以下に、はっとする。

 このように微細な差異をつくりあげて商品化する繊細さと、たえず他者と自分を比較して上下を判断する人間関係は、じつはつながっているのではないだろうか。
 比較することと、上か下かを判断してしまうことは、追いつめられた人ほどやりがちである。
(114ページ 穏やかな日常に満ちる悪意 より)

雑誌が売れなくなったり廃刊になる理由がスマホやネットへの移行として語られることが多いけど、雑誌のターゲティングのような差別区別感情のナマナマしさがもうキツいってのはあると思う。



以下も、ほんのちょっとした話にも第三者の名前を出さずにいられないマインドをよく切り取った指摘。

「主人が……」「世間が……」と他者を主語にしているうちは、「私」も、そして「他者」も現れない。
 絆の強調、コミュニケーションの強制は、相手を尊重するように見えて、じつは「私」という主体を埋没させてしまう。私がいなければ「他者」も存在しない。
 他者の不在が何をもたらすかといえば、自分とは違う考えをもつ存在の否定である。多様性を否定することは、異なる意見に脅えてしまうことだ。それは、第三章で述べたように、自分より楽に生きている存在、自分より幸せ(に見える)存在を引きずりおろすことにつながっていく。それは強さではなく、この上なく弱く脆いことなのである。
(170ページ 「私」が成立していないから「他者」を否定する より)

自分と価値観が同じでない人には不幸になってほしいという思考と、「私」の不在はワンセットなんだろうな。


かなりナマナマしいことを書いているのだけど、終盤の「おばちゃんによる韓流大好きトーク」で煙に巻かれている気がする。前半がかなりビビッド。
いまどき空気を読むのがしんどいと感じていない人はいないと思うけど、家庭のなかで言う前から発言を取り下げることが多い女性にかなりおすすめです。