うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

理解という名の愛がほしい ─ おとなの小論文教室。2 山田ズーニー 著


まえに感想を書いた「おとなの小論文教室。」の第二弾。前回よりも仕事の場面でヒリヒリするコミュニケーションに入り込むコンテンツが多いと感じました。

Lesson9の『「お願い」の肝』というトピックにある「返事をつめよるな、伝えろ!」という叫びには、うなずくばかり。すこしデフォルメした実例を挙げてくれています。ズーニーさんのエッセイのデトックス効果は、このリアルさにある。わたしも、このトピックの冒頭にあるような

人に「ものを頼むこと」を、「返事をもらうこと」と思っている人が、わりといるようだ。

と感じることがつい最近あったばかりなので、読んでいて気持ちがラクになりました。
わたしの実例は、あるグループの飲み会の幹事さんから送られてきたメール。もう何年も会っていない人ばかりの会で、メールは日程をおさえる返事を詰め寄られるものでした。開始時間・拘束時間・場所などの「基本仕様」がまったく記載されておらず、「来れる日をリストして送って欲しい」と。今のコミュニケーションのひとつの傾向なのかな。ヨガのイベントでも、たまにこんな感じのがあります。
もうそろそろ、こういうことにいちいち疲れないメンタルを身につけなくては、と思っていたところでした。



Lesson13の『なぜか饒舌になるとき』は、一部を抜き出しては伝えられない、微妙なところ(罪悪感)に触れています。考えがまとまらないまま、場にそぐわない量の発言をしてしまったり、感想メールを送ってしまったり、相応しい関係性を築いていない間柄で長文メールを送ってしまった経験がある人は読むとよいと思う。
自分の居場所を失ってしまう原因に気づけるかもしれない。わたしも読んでいて、経験のある感情をほじくり返されました。



以下も、わかるなぁ。と思いながら胸が痛みました。

 みんな、いい仕事をしようと思って仕事のゴールを描いて、職場に集まってくる。
 人とのコミュニケーションをとる。
 ところが、自分のやってることがあまりにも理解されないと、いつのまにか、「わかってくれ」がゴールになってしまっている。
(Lesson7 理解の言葉を伝えて より)

ちょっと離れてみているとわかるのだけど、「わかってくれ」がゴールになってしまっている人には、もうそのときにはかける言葉がないんですよね。やや手遅れな感じがする。


このシリーズは「ものすごく微妙」なところをついてくるのだけど、ずっと寝かせていた感情が成仏していくような癒やしがあります。
感情と思考(チッタとマナス)の境界と、思考と統覚→表現(マナスとブッディ)の境界が、よーくわかります。