うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

街場の文体論 内田樹 著


読んでいてすごくおもしろかったのだけど、そのおもしろさが言葉にしにくい講義録。
文体の話をしているのだけど、「メッセージとは」「メッセージを出すとは」「伝えるとは」「伝わるとは」を刻んで刻んで、身体に刷り込んでいくような段取り。
フランス語のことはさっぱりわからないのだけど、「ああ、フランス語ってこういう方向に芸が細かいのか」なんて思いながら読む。書いているときに頭の中で起こっていることの観察も興味深い。

<88ページ 第5講 ストカスティックなプロセス なぜ「推」と「敲」が選ばれたのか より>
 僕たちは自分で文章を書いておきながら、どうしてこの語が選ばれて、それ以外の語は選ばれなかったのかを自分に問うても答えを得ることができません。問いを立てている部屋と、言葉を選んだ部屋が別の部屋だからです。

そうか、そうかも。そうかなぁ。語って、音楽や絵みたいに出てくる感じがする。


<124ページ 第7講 エクリチュール文化資本 われわれはエクリチュールの虜囚である より>
 エクリチュールの及ぼす標準化圧力に対してあまりに無自覚だと、人間としての扱われ方が雑になるというリスクを引き受けなければならない。そういうことです。

この「エクリチュール」の話がすごく興味深い。ウェブサービスとかマーケティングの人が使う「エンゲージメント」に近いかも。


<244ページ 第12講 意味と身体 言語は道具ではない より>
 外国語の学習というのは、本来、自分の種族には理解できない概念や、存在しない感情、知らない世界の見方を、他の言語集団から学ぶことなんです。(中略)本来、外国語というのは、自己表現のために学ぶものではないんです。自己を豊かにするために学ぶものなんです。自分を外部に押しつけるためではなく、外部を自分のうちに取り込むために学ぶものなんです。

これは、ほんとうにそうであるなぁと思う。知りたいことがあると、学べちゃうというほうが自然。



冠詞についての説明も、「おお」と思いました。

<255ページ 第13講 クリシェと転がる檻 クリシェと共生する より>
 a は形相、イデア、抽象概念です。 the は質料、感覚世界に実存する個物です。世界を形相と質料で分けるのはプラトン以来のヨーロッパの宇宙観です。一軒の家があるとき、家の構造が形相で、木や石のような材料が質料であるというふうに彼らは分節する。日本人はそんなことをしない。形相は a を、質料は the をそれぞれ冠詞に要求する、そんなことは僕たちにはわからない。だって、僕たちはものを見るときに、それが形相であるかと質料であるかの区別なんてしませんから。

こういう風にいわれたほうが、わかる。外国人のアーサナのクラスを通訳をするとき、そういえば元の英語は the ばっかりだ。


<257ページ 第13講 クリシェと転がる檻 日本人は二重言語構造に呪縛されている より>
これから先、英語が国際共通語になった場合に何が起こるかというと、英語そのもののコスモロジーは崩壊せざるをえないと思うんです。文法と語彙だけは共通だけれど、それぞれの母語を異にする人たちが、てんでに「自分の言いたいこと」を英語に乗せてゆく。

これはインド人の英文を読んでいると、たまにあります。辞書を引いても出てこない。たぶんインド人の感覚で造語してる。「evolute」ってよく出てくるのですが、「evolution」から動詞にして使っているみたい。展開することの、物質(プラクリティ)の自動詞としてよく出てくる本があって、「辞書にないよスワミ!」と突っ込みながら読んでいるうちに、たぶんわたしの英語もインド人の感覚になっている。


この本は「言葉と感覚について」という感じの本なのでおもしろいんだなぁ。最終講で夏目漱石の「虞美人草」も多く扱われていました。



内田樹さんの本の感想はこちらの本棚にまとめてあります。