本屋で立ち読みを始めたらおもしろくてやめられず、そのまま乗り物の中でイッキ読み。そのあともチラチラ開いて何度も読み返しています。
この本は文章の書くための本なのだけど、それはそのまま意識の整理整頓の方法でもあったりする。読みながら、完全にヨガの本に見えてくる。
全体は4つの講義で構成されているのですが、そのまえの「はじめに」でグッと引き込まれる。終盤の第4講では「自分を疑う力」が大切だと書かれています。そしてそのあとページで再びこのように言い換えられます。
文章という要素を抜きにして考えてほしい。いったい「いまの自分」が正しくて、「昨日の自分」が間違っているという保証はどこにあるのだろうか?
瞬間瞬間で変わる意識のなかでも、ずっと変わらない意志や意見しか、読んでもらえる文章にならない。この本全体に、そんなヨギックな教えが詰まっています。
以下は、まるで倒立のプロセスのよう。
たぶん、支離滅裂な文章を書く人は、自分でも論理の破綻に薄々感づいているはずだ。
なにかしっくりこない感じ、うまく言えていないモヤモヤした感じを抱きながらも、早く結論にたどり着きたくて、早く書くのを終わらせたくて、つい強引なロジックに頼ってしまう。文章に対する堪え性がない、ともいえるだろう。
(69ページ リズムのカギは接続詞にある より)
「堪え性がない」まさに。倒立ができるまでのプロセスを越えた人は、明らかにある種のモヤモヤを解消しています。
以下も、まるで倒立のプロセスのよう。
問題は「なにを書くか?」ではなく、「なにを書かないか?」なのだ。
書くべきものは、日常のなかにたくさん転がっているし、頭のなかにうんざりするほど溢れ返っている。書くべきものが見当たらないのは、素材が足りないのではない。むしろ "元ネタ" が多すぎるせいで、見えなくなっているのだ。
(233ページ 「なにを書くか?」ではなく「なにを書かないか? より)
立位の感覚を捨てることができないまま "元ネタ" をどんどん集めてさらに混乱してみたり。
こういうのは、外から見ているとほんとうによくわかる。
この本の第3講では、シンプルな事実がわかっていない人の文章の内容は「ひたすら気持ちの悪いポエム」「読者不在のままに自己完結した、自意識の露出狂」であるとバッサリ。そして経験から導き出した事実として「文章には "自分の頭でわかったこと" 以外は書いてはいけない」といい、納得するしかないくらいわかりやすい喩えが続きます。
このほかにも、以下が気になりました。これまでは「自信がないから技巧に走るのだろう」くらいに思っていたのですが、
難解な文章が "賢い人の文章" だというのは、大きな間違いだ。
難解な文章がとは、読者の読解力に甘えた、内輪向けの文章にすぎない。
(174ページ 「わかるヤツにわかればいい」のウソ より)
たしかに内輪向けの文章だから、いやな感じがするのかも。テレビやラジオでも「関係者の笑い声」みたいなのも不快だ。
この本では、第3講で自分が生理的に "嫌い" と思う要素を掘り下げることの重要さも説明されています。実際この本を読みながら、わたしはもともと「笑い声をあげることだけで関係者のように自分を装ってみたり、自分はわかっているというアピールをする」という行為が嫌であることに気づきました。「楽しい」以外の笑いの表明は、根拠が薄っぺらいと気分がしらけてしまう。
声の出ない文章でも、具体的な理由や経験を示さずに「笑うほど理解している自分」を演出するものを見ると「薄っぺらいなぁ、せこいなぁ」と感じます。<絵文字やこれ→(笑)は、また別の話です>
この本は読んでいるうちに「やさしい取調べ」を受けているような気分になり、あらためて「そうか!」と思うことがいっぱいでした。
そんなこんなで、この本はヨガをするすべての人におすすめです。読んでみて。