うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

行人(こうじん) 夏目漱石 著


後期三部作で「彼岸過迄」と「こころ」の間にあたる作品ですが、「彼岸過迄」の冗長さと「こころ」のトゥーマッチな濃縮の中間にある絶妙なバランス着地。「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の4編構成で、いずれもドラマチック。いっきに読ませる。
これだけの要素を盛り込みながら、飽きずに読ませるエンターテインメント性も含めて構成力ではベスト盤のよう。人間関係のなかでの区別感情とエネルギーの優位性が細かく描かれる度合いは、「こころ」を超える精密さ。夏目漱石の作品を2つ以上読んでいれば、ワクワクしながら読めるはず。


調理方法としては、こんなものが織り込まれています(これでも一例)。

  • 「吾猫」「坊ちゃん」のように、見た目でニックネームをつけてフレンドリーにその世界へ連れだす
  • 「坊ちゃん」のように、キャラ設定で二元論を描き、サスペンスでひっぱっていく
  • 草枕」に登場するツンデレちょい手前くらいの、ツンが多めな女
  • 三四郎」にもあった、若い男性の「いくじなし」感
  • 「それから」の昼メロ的展開を惜しげなく前半で放つ
  • 「門」の宗教観
  • 彼岸過迄」のトラベル効果(「行人」は旅人をさす)
  • 「こころ」にある人間関係イベントの輪唱(「旅であの人の心を暴こう大作戦」パート1&2)
  • 「こころ」にあるクロージング手法


とにかく豪華すぎる。
そしてわたしは、この設定があくまで「ファミリードラマ」であるところに凄さを感じます。「サザエさん」を「おじゃまんが山田くん」の不気味タッチで描きました、と言われたような。人は神経を病んで疑い出すと、平和な家庭もここまでおどろおどろしくできるという、マーヤーとモーハーの最悪の形を描ききっている。窮屈の原因は疑いであることをとことん描く。長男が絶対的に優位にあったり、権威者が職業や結婚の世話をしたり、設定がインドっぽい。息子が結婚相手を探しているときの親の態度に、とても印象的な場面がありました。

<第二編「兄」二より>
自分と兄とは常にこのくらい懸隔(かけへだ)てのある言葉で応対するのが例になっていた。これは年が少し違うのと、父が昔堅気で、長男に最上の権力を塗りつけるようにして育て上げた結果である。



<第四編「塵労」二十七より>
母は先方が迷惑がるはずがないという顔つきで、むやみに細かい質問を始めた。しかし財産がどのくらいあるんだろうとか、親類に貧乏人があるだろうかとか、あるいは悪い病気の系統を引いていやしなかろうかと云うような事になると、自分にはまるで答えられなかった。

こういう価値観があからさまな時代で、かつ、登場人物がそれを奔放に口にする。




さらに、この小説は女性への評価の描写がナマナマしい。ぶりっ子に対して容赦のないスタンスは定常だけど、「三四郎」でのフェミな漱石と「こころ」で女の作為を嫌悪する漱石の、どちらでもない。美人でも控えめでもない女は1ミリも評価しない。美人じゃなくても控えめなら人間性を見てもらえる。美人ならとにかく心も見たくなるというスタンスが明確(笑)。さらに不美人は会話もやっぱり下世話であるというような描写が「友達」の22章に登場して痛快(美人看護婦を不美人看護婦が下世話な噂話のまな板に乗せる場面があります)。
このほかにも、いくつか印象に残った描写があります。(読む楽しみのために人名は伏せます)
以下、男性が女性の態度を描写する場面。

  • 自分は○○さんの愛嬌のうちに、どことなく黒人(くろうと)らしい媚を認めて、急に返事の調子を狂わせた。
  • 「○○さん怖かありませんか」「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉(はすは)の態度もなかった。
  • ○○の顔ばかりに注意していた自分は、彼女の鼓がそれほど不味いとはそれまで気がつかなかった。
  • 自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。その笑いの中には相手を翻弄し得た瞬間の愉快を女性的に貪りつつある妙な閃(ひらめき)があった。


以下の描写は、女同士でよくあることだと思う。

<第三編「帰ってから」九より>
自分も固(もと)より彼女の相手になり得るほどの悪口家であった。けれども最後にとうとう根気負がして黙ってしまった。それでも彼女は自分の傍を去らなかった。そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌り廻してやまなかった。その中で彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分と○○とを結びつけて当て擦するという悪い意地であった。

ターゲットを定めてなんでもそこに着地させたがる人の顔が何人も思い浮かんできた。




そしてやっぱりお家芸は「男が女に盛り立ててもらえなくてこじれる」の描写。わたしは「彼岸過迄」で描写されるような大人の中二病は重苦しく感じますが、三四郎の広田先生みたいなのは大好きなので、「イライラするけど萌える!」という複雑な気持ちで読みました。

  • 噫々(ああああ)女も気狂いにして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな。
  • 自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫(つか)まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない。
  • ある技巧は、人生を幸福にするために、どうしても必要と見えるね。
  • 人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経るに従がって、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺戟するように残るのではなかろうか。もっともその当時はみんな道徳に加勢する。二人のような関係を不義だと云って咎める。しかしそれはその事情の起った瞬間を治めるための道義に駆かられた云わば通り雨のようなもので、(以後略)。
  • 道徳に加勢するものは一時の勝利者には違ないが、永久の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利者だ……
  • 君でも一日のうちに、損も得も要いらない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ。
  • ○○さんには甲でも乙でも構わないという鈍なところがありません。必ず甲か乙かのどっちかでなくては承知できないのです。

これを「影を踏んで力んでいるような哲学」と表現する。的確すぎてのけぞる。



上記の人と対照的に描かれる男性のメンタルがまた、いい。この主人公は中年女性への人気No.1になるのではなかろうか。あたしゃそう思うよ。

自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石(ダイヤ)はほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工だとかつて教わった事がある。その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。若輩な自分は○○の涙を眼の前に見て、何となく可憐に堪えないような気がした。ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。

きましたー。韓流ブームを煎じ詰めるとたどり着くこれ、きましたー。




ちょっとおばちゃんモードにギアが入りかけたのでヨガの先生モードに戻しますが、この物語はラジャス性の時にはもちこたえていた精神がタマス性のモーハーに蝕まれていく過程を細かく描いています。

  • 僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから。
  • ○○さんは自分の身躯や心が自分を裏切る曲者(くせもの)のように云います。

小説の中では「とはいえ、よく寝るときは寝る」という習性が身体のコントロール不整合を描いています。第四編のタイトルの「塵労」は、仏教用語として選ばれていますが、ヨーガ・スートラでは煩悩(Klesa,Klesha)。で、この悩みを抱える人を救うべく、友人がかける言葉がとにかくすごい。この人のスワミっぷりがハンパない。ラスト、引きこまれますよ。




そんなに長い小説ではないのに、よくこの中にこれだけ盛り込んだよな、と思う要素がもう一つ。
「こころ」では女神信仰が半分溶解しまっているのだけど、この小説の中では破壊神をも兼ねるデーヴィー的な女神像が強いタッチで描かれています。聖と俗の両方に住まう女性として、『「門」の御米さんは、そうは言ってもまだ人間だったな』と思わせるほどすごいキャラクターが出てくる。

<第四編「塵労」四より>
彼女は初めから運命なら畏れないという宗教心を、自分一人で持って生れた女らしかった。その代り他(ひと)の運命も畏れないという性質(たち)にも見えた。



<第四編「塵労」六より>
ある刹那には彼女は忍耐の権化のごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹さえ認められない気高さが潜んでいた。彼女は眉をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然と坐った。あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。

「おまえはもう死んでいる」を超えた、「妾(あたし)はすでに死んでいますがなにか」の境地。この人すごいのよー。イレギュラー・バウンドも斜め上で受け止める。絶対にこぼさない。



表現もいつもながらおもしろく、「部屋とワイシャツと私」みたいな手法で「珈琲とカステラとチョコレートとサンドイッチ」なんてフレーズが出てきたりするし、シリアスな局面へゆっくりと入る折にこんな比喩で穏やかな下地づくりをする。すごい演出。

私は時々生温い水に足下を襲われました。岸へ寄せる波の余りが、のし餅のように平らに拡がって、思いのほか遠くまで押し上げて来るのです。
(第四編「塵労」四十九)

周囲はシリアスに経過を見つめてしまう場面だけど、当人たちはそうでもなかった感じが伝わってくる。「のし餅」って、そのまんまだしうまい比喩だけど、ここで使うか!
「ここでー!?」とつっこむのが楽しくてしょうがない。



と、細かく感想を書きましたが、わたしの感情的な感想のメモ(読みながら携帯電話のメモに書く)には、こうありました。(これもネタバレしないように人物名は伏せます)

  • こんな落ち着かない家はいやだ。
  • しんどい山を歩いてもこの話してるって、余剰エネルギーありすぎ。
  • リアクションがいいってだけで不貞扱いされるってなにさ!
  • でも潔白って、そもそも証明できないものかも。「疑い」は疑う人の中で起きている。
  • 「死ぬか気が狂うか宗教に入るか」って、だからヨガすればいいのに。やっぱり運動不足。
  • よく寝てるけど、寝るたびに死んで生き返るくらいの深さがないと、寝るだけ悪循環。
  • ○さんの傾聴スキルと返し、すごい……。三蔵法師みたい。
  • 雨の中を走るだけでこれだけ解消されているなら、快方に向かっているのかな。余剰エネルギーは減ってるっぽい。
  • あの家の人たち、それぞれにバランスのとれた友人がいて、まじで救われた。


久しぶりに夢中でイッキ読みしました。「豪華」のひとことに尽きる。この小説に登場する男性たちは魅力的な人ばかりで、わたしは語り手の男性のご友人で、前半に登場する男性が興味の対象。ほどよくミステリアスでありながら、抜群に気の利くジゴロキャラ、キターーー! と思って読んでいたらすぐ後半まで進んでしまった。
一方で。これまでもちょいちょい梵我一如を扱っていたグルジがこの小説でガッツリそちらへ寄っていくのを淋しく見送る気持ちで読みました。三四郎の時には「広田先生」という着ぐるみを設定して描いていたものを、「行人」では真正面のエピソードとして展開する。「うわぁ、本気で入り込んで書いてる」という怖さがある。「でも肉体を捨てない。それでも肉にくっついて生きてる魂」というギリギリの緊張感が炸裂した作品とも言えるのかな。
いろんな意味で名作だと思います。


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行人
行人
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(2012-09-27)


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