夏目漱石読書会(という名目だけど、半分はインド哲学クラス@台所)からの演習紹介です。
参加者さんに提出いただく事前宿題やディスカッション中に『「こころ」の別バージョンのように感じた』『安井君は、Kに似てる』などのコメントがありましたが、「門」は「こころ」とセットで読んでおきたい名作。ヨーガ的な掘り下げに向いた要素の多い作品で、「三四郎」で展開されるシャンカラのヴェーダーンタ哲学よりもパタンジャリ寄りです。
(うちこの投球)
ふたりが恐れているものは?
宗助と御米が共有しているもの・していないものって、なんだと思う?
(参加者、シンキング・ターイム)
(でた。どん)
宗助は、どうでしょう?
- 安井さんに会うのが怖い
- 大家の坂井さんに安井さんとの件がバレて追い出されるかも
- 今の暮らしを失うのが怖い
御米は、どうでしょう?
- 身体の問題のことを、呪いではないかと思っている
- ばちが当たったのだと思っている
宗助はマテリアル・ワールドで「恐れ」てる。
御米はスピリチュアル・ワールドで「畏れ」てる。
グルジの小説にはいつも強烈なコピーワークが出てきますが、この「門」の根底に流れるものとして
「因果の束縛」
というフレーズがひっかかり、上記の「おそれ」についてのディスカッションを設定しました。「『因果の束縛』という表現は4章に出てきます。」という話をしたら、参加者さんが同じように引っかかって記憶したフレーズとして、以下を出してくれました。
「徳義上の苛責」
これは、13章に出てきます。
以前『日本の「良心」は「呵責」するのふしぎー!』と書いたことがあるのですが、日本語は支配力を持った構造をしていています。「売春」が「春」である単語設定の巧妙さと同じような支配関係は、日常の言葉のあちこちにある。たぶんこれが日本の宗教で、イザヤ・ベンダサンさんのおっしゃる「日本教」なのでしょう。この「門」という小説の中でも、この構造が宗助と御米に共通する心情として描かれています。
世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負わした。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確かであるかを疑った。
「門」という小説は、いっけん地味です。ドロドロの昼メロのような「それから」や、入りきれない量の文字を封筒に収めないことには終われない「こころ」のような強引さもありません。でも、投げかけられる問題はかなりヨギック。
ここで描かれる二人は
「いったん茫然として、彼らの頭が確かであるかを疑った」
というプロセスを経ている。ここに、二人の有機体としての圧倒的な主体性があります。
ほかにもいろいろな演習をしましたが、「門」という小説は、こういう視点で読むとまた展開する景色が外に向く作品です。
「しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に」
漱石グルジは一貫して、「良心」という単語の使い方にとても慎重です。まえに「こころ」の読書会で、ここをピックアップしてくれた人がいました。
Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄関から坐敷へ通る時、すなわち例のごとく彼の室を抜けようとした瞬間でした。(「こころ」46より)
ここは「良心って、消えたり復活したりするのかよ!」と自他へツッコミたいグルジ渾身のボケ。
そして、この「門」で表現される「徳義上の苛責」にも、根本的にわたしは同じものを感じます。
▼関連補足