うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

彼岸過迄 夏目漱石 著


作品が始まる前に自ら「この小説はこういう試みで〜」という執筆背景説明をし、小説の最後にも総括がある。
読んでみたらなるほど。登場人物は引き継ぐのに主語ががらりとかわるおもしろい構成。前半は珍しくワクワクする探偵小説のような流れもあります。読中は小芝居を見ているような感覚になり、映像化したら面白そう。タランティーノの「フロム・ダスク・ティル・ドーン」なみに前半と後半の調子が変わります。
ウジウジ面倒な人の心理描写をさせたら神業であることは過去の作品で知っていますが、前半のストーリーに登場する以下の場面の心理描写が特におもしろかった。

  • 占い師のおばあさんのことばに言い訳をしながらも翻弄される主人公
  • 依頼範囲以上のことを勝手にやり、成果を挙げた報告をする探偵に「依頼範囲ではない」と依頼主が指摘する場面

いずれも就職活動中に焦る若者の行動への鋭い指摘を含んでいます。こんな描き方をこの時代にするなんて!
後者の箇所を引用します。

「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過のようでした」
「よっぽど過。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」

この会話は、いまより進んでる気がする。義理人情浪花節で繕う日本人の根性のあさましさを指摘している感じが好き。



ほかにも、伏線ではなく「暗示させる」書き方がとても巧妙です。「こころ」までの後期三部作のはじめの作品で、登場人物の中に「こころ」の「先生」の元型のような、自ら「陰性の癇癪持」と認識する人物が登場します。ほとんどの人はこの人物の心理描写に意識を持っていかれると思うのですが、わたしはこの小説に登場する千代子さんという女性のセリフに喝采を贈りたい。
ずっと外野のようなスタンスですかしている男に、「嫉妬心だけ参加するってどーよ」という意向を示す場面があります。他の小説に出てくる女性よりも意志表明の仕方がはっきりしています。避ければ避けたで面倒だし、誘えば誘ったで面倒な男性に女性がズバッと言う。
千代子さんにズバッと言われてしまう男性は、いちいち人の発言や行動に妄想を爆発させ、黙っていたら黙っていたで、それに対して

白い紙の上に一点の暗い印気(インキ)が落ちたような気がした。

と考える。そっちでもインキを使いますか。ここまでくると、陰気芸なのかと思う。どこまでもチヤホヤし続けなければガソリン不足になる燃費の悪さ。イライラするほど、グルジの思うつぼという感じがして、ああイライラする(笑)。
これは究極の「タマシック・エンターテインメント」だ!



以下は印象に残ったセリフや心理描写。誰のセリフとは書きません。

元々頑丈にできた身体だから単に馳け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ懸かかったなり居据わって動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間へまが度重なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。

就職活動期の青年の心身描写。うまいなぁ。



肝心なところで山気だの謀叛気だのって低気圧を起しちゃ親不孝に当らあね。

グルジはラジャスをやまぎ(山気)と書きますよ。



まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿同然渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り解脱ができないのは、全く無学すなわち学がないからです。

あらこんなところにインド人。



占ないを信じて動くのではない、動こうとする矢先へ婆さんが動く縁をつけてくれたに過ぎないのだと思った。

占いに行く時点で痛いのにさらに痛い。



彼はこの間の会見で、自分に都合の好い結果が、近い内にわが頭の上に落ちて来るものと固く信ずるようになった。そうしてその結果がどんな異様の形を装おって、彼の前に現われるかを、彼は最も楽しんで待ち暮らした。

根拠に無理のあるポジティブ妄想なんだけど、さらに「どんな異様の形を装おって」ってところが怖い。ああおそろしい。



改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操って、それがために偵察の興味が一段と鋭どく研ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有った青年の常として、この観察点から男女を眺めるときに、始めて男女らしい心持が湧わいて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。

鮮やかなところに落とし込もうという思考が、グルジの描く恋愛観のなかでは珍しくストレートで好き。神聖とか罪悪とか言わないこの描写は若者らしい思考の描き方として素直だと思う。



切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日一昨日の気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。

人の死を受け入れる場面。



もっとも僕は神経の鋭どく動く性質だから、物を誇大に考え過したり、要らぬ僻みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委しい叔父叔母の観察を遠慮なくここに述べる非礼は憚かりたい。

この人はいくところまでいってるなぁと思う神経性ぶりなのですが、極端なことをしないのはこういう自己客観視の視点があるから。「非礼」という感覚があるのがいい。



自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表のようにぴたりと合った愉快を感じた覚がただ一遍ある。

こういう愉快の瞬間って、そんなにないもの。このレア度の示し方がいい。



僕はきっとその光のために射竦められるにきまっている。それと同程度あるいはより以上の輝くものを、返礼として彼女に与えるには、感情家として僕が余りに貧弱だからである。僕は芳烈な一樽の清酒を貰っても、それを味わい尽くす資格を持たない下戸として、今日まで世間から教育されて来たのである。

ここは本当にうまい表現をする者だと思う。「感情の下戸」って、あるなぁ。



僕に云わせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。

こういうショート・コピー力がこの小説では炸裂しまくっている。



右か左へ自分の身体を動かし得ないただの理窟は、いくら旨くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。

これ言ってる本人がもともと鈍臭い人なのに、さらに鈍性の人が現われて、さも自分はリア充かのようなスタンスに切り換えた後の表現。いやらしい!



それほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕を淋しく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。

元祖草食男子かと思いきや、性欲ありまくりです。




最後はいつもの、たたみかけ芸。もはやラップ。

僕は技巧という二字を細かに割って考えた。高木を媒鳥(おとり)に僕を釣るつもりか。釣るのは、最後の目的もない癖に、ただ僕の彼女に対する愛情を一時的に刺戟して楽しむつもりか。あるいは僕にある意味で高木のようになれというつもりか。そうすれば僕を愛しても好いというつもりか。あるいは高木と僕と戦うところを眺ながめて面白かったというつもりか。または高木を僕の眼の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れというつもりか。

つもりかつもりかYO! YO! YO!


大病の後の復帰作なので、グルジの内面のあれこれが爆発しています。


▼文庫は集英社のカバーが圧倒的にかわいい! 中身とのギャップが(笑)


Kindle

彼岸過迄
彼岸過迄
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(2012-09-27)


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