きのうに引き続き、今日は形成外科へ。わたしは付き添い。抜糸のスケジュールなどを決めてきたらしい。
診療中に、わたしはきのう教えてもらったことを実践すべく、地域の専門機関へ電話をした。
事情を話したら、本人に自覚が芽生えているいまのうちに依存症に対応する科のある病院で診断を受けたほうがいいというアドバイスを受ける。あわせて、保健士さんとの面談日程を決めましょう、ということになった。
今日はそのあと遠足のようにバスとタクシーを乗り継ぎながら「がっつり専門」の病院へ行った。きのう精神科の先生に教えてもらった、依存症の家族向けのあれこれもアドバイスしてくれるという病院。予約ありきの病院だったのだけど、見た目からして異常(顔がボコボコ)な状況もあってか、かなり待ったが診療してもらえることになった。
依存症に特化した科がある病院なので質問もやや濃く、麻薬摂取の経験まで聞かれた。脳のCTや血液検査をやるホンキ度もあってか、父は来月から自分でアルコール専門医のところへ行くという(これにより、別居計画は流れた。引っ越しが面倒なだけだろ、というのが本音なのだが)。
アルコール依存症を病気として扱うガッチリ度合いやシステム、設備が「めちゃくちゃ進んでるなぁ」という環境を見たり、手が震えている人とすれ違ったりすることで、父もわたしも治療に対するマイノリティ感のようなものが薄れていく。
歩行がいまひとつなので、病院の人が「車椅子を出しましょうか」と声をかけてくれた。
「いいですかぁ〜☆」と言うんだろうなと思ってみていたら、「いや、けっこうです。トレーニングします」と、「この病院のなかでもメンタルが前向きで、デキる患者のオレ」という対応をしていた。
この病院の設備、雰囲気のハイソサエティ感の効用を早くも見た。
わたし向けの資料「依存症家族ミーティングのしおり」ももらった。CTスキャンを待つ間に、資料の中ですすめられていた本を一冊注文した。「基本的な家族の対応」という12項目があるなか、半分くらいはできていて、半分は自分の状態がよくないとやってしまうことだった。
なかでも
- 本人への過度な注意、集中を避け、自分自身に注意を向け変える。(家族がまず、楽になりましょう)
- 本人の不始末の尻拭いをしない。(特に飲酒、薬に関わることで)
- 本人とかかわれるのは、しらふの時だけである。(飲んでいるときは一切かかわらないようにする)
というのは、ズシンときた。
診療のあと、ここ最近のわたしの不安定さの原因が「臭い」であることが明らかになったばかりだったので、帰りに寝具を買って、大掃除をして一掃した。スプリングのカバー布に沁みついた臭いは、洗剤とブラシで何度もこすっては拭いて、できるところまででやめた。こういう作業をしていると、自分の気持ちが回復していくのがわかった。掃除をして悟ったチューラパンタカって、こういう感じかも。なんてことを思った。
「そんなに臭うか? 大げさに言うな」といつものように基本的に認めない姿勢だった父は、作業を見ながら気持ちが変化していくようだった。作業完了時に「わたしはこれで、臭いを感じなくて気持ちが楽になった。まえはここがずっと公衆トイレの臭いで、つらかった」と言ったら、初めて少しは認めているようなことを言った。
あわせて、「布団を捨てていると、なにか問題があるようでしゃくだ」というようなことも言う。たぶん、こういう「そんなこと誰も気にしない」と思うような「体裁を気にする心」が、なにかとつながっている。そのなにかは、うまく使えばいいことにつながることもあるもの。
父はここ二日で診療行動を詰め込みながら、なりゆきで断酒をしているような状態だ。
いまは人に会いたくない見た目なのでおとなしくしているけれど、先のことはわからない。
「信じない、疑わない、確かめない」
本人のことは本人にしかわからないから、確かめようがない。確かめようという気持ち自体が、自分以外の人間を私物化しようとする行為なんだなぁ。
今日は病院にあったちょっとしたサインや表示にうなるものがあった。トイレの呼び出しボタンに、「水を流すボタンではありません」ではなく「水は流れません 人が集まります」と補足してある。(「ご気分が悪い」の「い」が抜けているのはご愛嬌)
コミュニケーションに「暗黙の常識」が増えすぎて、ハードディスクがいっぱいになっちゃったら、ときには投げ出したくなっちゃうよね。
「暗黙の常識」の閉塞感がない病院は、居心地がよい。「日本の暗黙の常識」が通用しないインドの居心地への感覚を思い出した。
今日は半日そこにいて、診療を待ちながら病院の状況を観察した。予約は整理されているけれど、ざっくり試算するだけで大賑わいの大盛況。なんとなく、これからの税金の使い道はこっちに偏っていくんじゃないかな、なんてことも思った。欧米化しているなぁ。
そうそう、診療時に「宗教」について聞かれて、父が「恥ずかしながら、そういうものが、ないんですわ」と言っていたのがおもしろかった。「恥ずかしながら」というのは、ちょっといいなと思った。
きょう父は頭のガーゼを隠すために、わたしのベージュの網の細かいニットキャップをかぶって、ピチピチ・コンパクトな着こなしがちょっとイスラーム紳士ぽかった。なので、そのときひとりで
医師:信仰している宗教はありますか
父:イスラームです
医師:イスラームなのにアル中かよ!
というショート・コントができあがってしまい、「ククク」となった。
キャラの濃いお医者さんだったので、帰りのタクシーの中で父が「今日の先生は、なんというか……。患者のオレが言うのもなんだけど……」「う、うん。おもしろかったよね。精神科のお医者さんて、負けじとああいうキャラになるこいうことが、けっこうあるらしいよ」という話をした。
親子でする「ジャンキーの身分でツッコんでごめん!」みたいな会話が楽しかった。