うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アルコール依存症は治らない 《治らない》の意味 なだいなだ・吉岡隆 著


わたしはアルコール依存症といわれるものを「治る」「治らない」という文脈では語れないものだということを、なかなか他人に説明できません。
いまは若い人がお酒を飲まなくなっているというので、そこについてはとてもよいことだな…と思うのですが、あまりそういうことも口にはできない世の中です。飲みたくても飲めないのだ! という怒りへの返答は、ヨガをしたくてもできないのだ! という人への返答とよく似ていて、「知らなくて済むのであれば、それはそれで幸せなことかもしれないのだけど…」という気持ちになります。

こういう状態が「治る」って、どういうことを言うのだろう。生きているうちに証明できることだろうか。そして証明するとは、誰に対して?
これはまるで「悟った」ということを証明しろというようなもの。そんなことを、コンビニでお酒が買えるようになってしまったこの社会で、どうやるの。わたしは一時期、よくそんなことをよく考えていました。



 「治らない」というのはどういうことか



この本のすごいところは、3つの章それぞれが違う角度で「ああ、治らないというのは、こういうことか」という状態を示してくれるところ。
第1章では往復書簡のようにメールでのやりとりが編集されているのですが、まるでチョギャム・トゥルンパと彼に質問をする人のような鋭さでドキドキします。メールなので「待ち」の姿勢がとりやすいためややマイルドに進みますが、内面に向かう過程での皮の剥ぎかたはけっこうヒリヒリきます。

「はじめに」でなだいなださんが述べられている以下の箇所は、医者ではないけどわたしもうなずくところです。

  • ぼくは医者としての経験を積むうちに、理性など、哲学の講座の中の言葉であって、臨床の場には不似合だと考えるようになった。臨床の場で有用なのは常識だ。理性と常識は混同されやすい。だが似て非なるものだ。
  • 《売る》という言葉に、引っかかるかもしれないが、心理療法家は、分かりやすくいえば、真理を売る人ではなく、常識を売る人だ。そこが宗教家と違うところだ。

インドの哲学もそうですが、「理性」にあたる言葉が出てくる分解説明にうっとりしてしまう人は多く、そんなとき、ああこの人は自分を取り巻く常識から逃れたいのだな、ということがよくわかります。そしてその後は逃れ先を探す方向が全能感に向かうか否かでまた分かれます。
医師による「常識を売る」という言いかたの「売り手としての誠実さ」を理解する人って、どのくらいいるだろう。



以下の言葉も、ズシンときます。

医者は《病気》と診断するとき、生物的人間の面しか考えていない。だがアルコール依存は社会的人間の病気の要素が強い。生物的人間の病気は治癒する。アルコールによって侵された体は、一ヵ月も断酒すれば治癒する(かのように見える)。治癒したのは生物的人間の部分だけだ。それも完全ではなく、最飲酒すれば、すぐ離脱症状がでるところまで逆戻りする。
 だが、社会的人間の部分は、失った信用のために、社会復帰を妨げられる。社会的人間には治癒はない。断酒を続けることで信用を取り戻す必要があるのだ。
(第三章 常識を治癒する 常識を治すには教育が必要だ より)

本人が失った信用から目を背けたいうちは、関係改善に向かわないんですよね…。信用しなくなった側の記憶は消せないから。アル中の人は他人に迷惑をかけたり暴力をふるっては、あとでうやうやしくしたりプレゼントをくれたりするけれど、相手の記憶を消せると考えていることを露呈させてしまうその行為がまた墓穴を掘ってしまう。「埋め合わせ」という魔法は事実上この世にないということを認識できない状態は、周囲にとっては「大人がサンタクロースを信じたいと言っている」のと同じなのだけど。


たとえば仕事でいえば「口の軽い人や大げさな人には重要な仕事は回ってこず、雑に扱われる」というように、個人の抑制力とリンクする「自分がどう扱われるか」という基準は常に社会のあちこちにあるのだけど、結局は行動の蓄積で信用を得ていくしかないんですよね。「治った」って、どうやって証明するの? というむずかしさもここにある。
この本は、「いいことしたという気分によって、自分はなにかを麻痺させようとしている」という状況にハッとしたことのある人にもおすすめです。なんでおすすめかは、第二章を読めばわかります。


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