石川雲蝶作品が観られるお寺です。ここは道を車で走っていると大きな看板があり、行きやすいです。
到着すると有名なインドグプタ王朝様式の建物が田園エリアにいきなり登場する。玄奘三蔵像もあります。
入り口から見て慈雲閣の左奥にあるのが本堂。ここに石川雲蝶作品があります。
浅彫り。葡萄に朝顔蝶々蜂の巣が彫られています。モチーフ以外のところを平らに仕上げる技術がすごいので、「こ、これはどうなっているのだ?」と、だまし絵のようです。
雲蝶作品を追いかけていく中で、どんどんドツボにはまってしまう。もうこの人のセンス全般、すごすぎる。
もりもりっとした獏、麟、唐獅子、牡丹モチーフの作品も観られます。
船子得誠(せんすとくじょう)と夾山善会(かっさんぜんえ)
「浅彫り」「定番モチーフ」「物語モノ」が観られるお寺なので、「永林寺」「西福寺」と同じくらい観光スポットとしてのスケールはありますが、このお寺は全体の中であまり雲蝶をフィーチャーしていません。
要素が多いお寺なんですね。文字がどばーっと書いてある解説プリントにあった文章を箇条書きで整理してみました。
■この寺そのものの歴史と情報
- 本尊は阿弥陀如来。永承五年(1050年)に源頼義公が前九年の役で、吹雪の中で凍死した将兵の菩提を弔うために寄進されたもの。
- この像の作者は平安時代の代表的な仏師定朝大法印で、木心乾漆切金の平安仏。
- この頃の龍谷寺は現在地の南、遭難の場所を一望できる堂平の高台にあり「龍の口六萬寺」と称していた。
- 「前九年の役」の軍勢が大崎村で猛吹雪のために遭難し、千余の投資者を出した。これは雪害の記録として日本最古のもの。(前九年の役が1051年〜1062年とされるのに対して若干時代がずれているのは、よくわからない)
- 「龍の口六萬寺」は八海山を修行の道場として創建された天台宗の寺だった。
- 当時の仏教は神道・陰陽道・神仙道等との習合を深め、寺院を山地に建立し、山岳宗教の色彩を強めていた。
- 「龍の口六萬寺」はのちに真言宗に改め、二十二代の法灯を伝えた。
- 大永三年(1523年)、天慶宗積禅師が上州より来越。禅宗寺院として復興し、名称も「龍の口龍谷寺」と改められ、以後曹洞宗の寺院となる。
- その後しばらっく堂平にあった寺が雪崩で倒壊。現在地へ移った。
- 現在地は南北朝時代の豪族「大崎九郎右衛門」の居館跡地で、この移転を機に「八海山龍谷寺」という名称が使われるようになった。
- 江戸時代中期に現在の本堂を建立。山門・坐禅堂・衆寮等が整備された。
- 明治初頭の政治的大変動のなかで、伽藍を縮小。
- 大正期以降は海外布教活動を行った。
- 終戦後はハワイ日経移民との間で世界平和・祖国復興を祈念して観音様の建立が願われ、昭和28年に十二面観世音菩薩像が完成。開眼。
- 昭和40年にインドのグプタ朝時代の建築様式を模した観音堂「慈雲閣」落慶。
- 昭和54年に「妙光堂」落慶。
■歴史的価値を伝える補足要素
- 「親王塚」は後醍醐天皇の第二皇子「宗良親王」の墓所と伝えられている。
- 宗良親王は有名な歌人であったとともに天台座主に任ぜられた宗教者であったが、南北朝の動乱にあって父・後醍醐天皇を助け各地を転戦。越後で最期を迎えたと伝えられる人物。
- 「梵字碑」は南北朝時代の庶民の墓石。自然石に刻まれた梵字碑の中には南朝の年号もあり、歴史を垣間見ることができる、民俗学の文化財として著名。
お寺のプロフィールを書くのって、むずかしいですね。
宗派が変わって受け継がれていくこと、資産が寄せられていくこと、資産のエピソード、芸術価値、あれもこれも・・・となる気持ちはかるのですが、今回このプリントを題材に整理してみて「年代」を主軸に置いた説明を冒頭に持ってくるのはマストだな、と思いました。
「永林寺」と「西福寺」は、「雲蝶とこの寺の歴史」という視点にフォーカスをしていて、選択と集中が潔い。お寺もいろいろです。
このお寺のことを調べていたら、「ガタブツ」さんという、新潟県の仏像を追いかけているかたのブログに出会いました。ガタブツさんの紹介する「龍谷寺」も面白く、新潟県の観光スポット探しに、すてきなまとまりのサイトです。
▼このほかの写真や記録のインデックス
●新潟県で石川雲蝶の彫刻作品をめぐる