うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

新編 東洋的な見方 鈴木大拙 著(後半)

読み進めるほどにドキドキする、後半になるほどナマナマしい。そんな構成の本です。(前半の感想はこちら
真宗の教えの紹介もおもしろいし、60年代ヒッピー周辺の自由思想ムードへの指摘も鮮やか。戦争についての東洋人と西洋人の考え方の分解・言い切りっぷりに完全にフリーズした。当時はものすごい批判も受けただろうなと思ったらやっぱりそうだった。鋭くわかりやすいだけに、そうだろうと思う。

規制が無いという「日本人的な感覚での自由」と「フリーダム」の違いを体現しているような、そんな文章。後半には真宗の教え、「自力と他力」の題材が多く、特に【「任せ切る」むずかしさ】という章は必読もの。
わたしの心にズドンと響いた箇所を紹介します。

<199ページ 東洋の心 より>
 禅とは、人間の心の底にある、無限の創造性に徹して、これに順応して動作することである。われらの多くは、この創造性に対して、あらゆる障害、すなわち制限を加えんとするので、心常に平らかならず、何かにつけ、精神的煩悩を覚えている。創造性が変型せられるからである。

他の章でもそうですが、「創造性」という単語の使われ方がとても特徴的。この本を読んで、この言葉についての感覚がずいぶん変わった。

<211ページ 無位の真人と より>
 宗教の要求するのは、真の人である。おひなさまを飾ったのでは活きていない、いかに美しくても手の届かぬ客観的幻影の世界にすわりこんでいては何にもならぬ。活潑潑地の真人そのものでなくてはならぬ。LSDの世界は、真物ではない。老婆禅の犠牲かまたは擒になった人たちが、いかにうようよしていることよ。このようなものは、魚市場のさらしものでしかない、一尾もぴちぴちしていない。

「ぴちぴち」というところが響いた。わたしがヨガの流れにある精神世界のあの時代(1965年ごろ)に感じるノリへの違和感は、「ぴちぴち」にありそうだ。インドのそれは、なんだか「ぴちぴち」ではない、地響きのような力だ。「いきいき」とか「ぴちぴち」とか、日本には独特の生命力美学のようなものがあるみたい。「イケイケ」とは違う。ベクトルを持った勢いではなく、存在自体の瞬間の連続した「気」。日本には日本の「プラーナ観」があるのだと思う。

<215ページ 機心ということ より>
 荘子の「純白」心または荘子孔子を通じていわしめる「混沌氏之術」なるもの、または今日の精神分析学者がいうところの「無意識」(自分はこれをその最も深い意味で使うのであるが、宇宙的無意識ともいうべきもの)、または老子の「無名の名」なるもの、あるいは「無無無名」(無にして無名も無し)なるもの、あるいは「己を忘れ天を忘れ」て、その天と己と一なるところに遊ぶもの、あるいは今時の論理学者にいわしむれば「絶対矛盾の自己同一」のもの、これらはいずれもさきにいうところの「機心」に反するものである。


(中略)


 「機心」のある限りは、はからいがある。対抗意識がある。対抗はこの世界に免れないところだが、これにとらえられていてはならぬ。これをこえたもの、あるいは包むものを見なくてはならぬ。

はからいを越えたもの、包むもの。これはいっけんとってもヨガっぽい感じがするけれど、同じ東洋でもインド・ヒンドゥーの教えのそれとは少しニュアンスが違っていて、「包括愛」よりも「あきらめる強さ」のほうが色濃い仏教的なものだと思う。仏教もインドなのだけど、日本人の暗さは、光を求めないこともできる強さでもあると思う。

<234ページ やわらぎ より>
日本文化史のうちで最も日本的なものの発揮せられたのは藤原時代であろう。この時代を特徴づけているのは、やわらぎに他ならぬ。やわらぎはまた実に女性の特徴である。藤原時代または王朝時代ほどに、女性の特徴の顕著になった時代はない。


(中略)


 女の作った仮名文字文学の性格はやわらぎで尽きている。漢字の硬いのに比べると比較にならぬほどに柔軟性に富んでいる。日本の気候は湿気で支配されているというが、気候だけでない、日本の自然の景物は何れもそのせいで、一種の潤いと柔らかさをもっている。日本人の性格はこれに養われて出来た点が多いと思う。
 このやわらぎが、最も日本人的嗜好といわれる茶席の中にも見えているのではなかろうか。

ここは、ほんとうにそうであるなぁと感覚的に沁みた。

<255ページ 安心 ── 禅と念仏 より>
 しかし、人間は、動物と違って働きそのものから出て、見る、または知るということになるのである。いわゆる「働くものから見るものへ」である。働くものが、働くことを自覚するのである、これを見るものというのである。

インド人か! と思うようなスワミな短文。


この本では、「浅原才一(あさはら・さいち)」という人が紹介されていて、その詩がとても沁みる。

<257ページ 安心 ── 禅と念仏 より>
 なお、才一の安心と禅の安心とについて、書きたいこともあるが、今日はここにとどめて、結論のようなものとして、才一の「らくらく歌」を、また一つ紹介する。


 よろこびを、まかせるひとわ、なむのにじ、
 われがよろこびや、なむがをる。
 さいちや、どんどこ、はたらくばかり。
 いまわあなたにく(苦)をとられ、
 はたらくみ(身)こそ、なむあみだぶつ。
 らくもこれ、よろこびもこれ、さとるもこれ、
 らくらくと、
 らくこそらくで、うきよすごすよ。

「よろこびを、まかせる」ことのなかにある苦は、南無阿弥陀仏。そういう心境でいるとき、心はかろやかだ。


もうひとつ、この部分以前にあった詩も引用します。

 たりき(他力)にわ、じりき(自力)もなし、たりきもなし、
 ただいちめんの たりきなり、
 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

「ただいちめんの」という覚悟という純粋性。
ヨガは暇つぶしで、浄化=覚悟なのだと、そんなことを漠然と思った。


<259ページ 「任せ切る」むずかしさ より>
que saris, seras で、「なるようにしかならぬ」と信心決定して安心決定するよりほかない境界、これは、自力の方では、何事も不可能と決めて、すべて他力の廻向すなわち運用に任せきるのである。すべて受動的で消極的にして、受け身の立場に立つほど、気楽なことはないとも考えられる。人間万事は、果たしてこの態度でやって行ってよいか如何、これが人間の霊性的立場での大問題である。


(中略)


 自力のみで動かすことが出来ぬものがある。これを他力というなら、その他力はまた自力のうえに働くことが可能なるのゆえをもって、他力即自力、従って自力即他力というべきであろう。一方では、「あなたまかせ」を見て、また他の一方では自力の責任をわすれてはならぬ、すなわちその創造性の働きを看過してはならぬ。単なる「絶対他力」でなくして、他力で自力、自力で他力の融通無礙の妙処に注目しなくてはならぬ。

「創造性の働きを看過してはならぬ」「融通無礙の妙処」。なかなか言語化できなかったことが、ずばっと示された。

<288ページ 物の見方 ── 東洋と西洋 より>
 欧米人の戦争観は日本人のと違う。日本では人を戦争の主体として居るが、前者に在りては戦争は力の抗争である。それ故、力が尽きれば降参して、お互いに無益の流血を避ける。


(中略)


日本人は、敵を悪むべきもの、「鬼畜」の類だと見る。それ故、降参すれば向こうのものは自分を殺すにきまって居る、敵の手でいじめられて死ぬより、自分の手で死ぬのがよいと、感情の上で判断する。人が主体になると自らそのような見方になる。欧米人は力を中心に考える故、自ら非人格的になる。それで、戦時における捕虜の取り扱いについては特別の規則が作られてある、人格の尊重が説かれるのである。日本人は人を相手とするのであるが、不思議に人格を無視する。そうして捕虜はいくら虐待しても苛責しても惨殺しても構わないということにして居る。降参という事象に対する東西の物の考え方の相違がこんな処から出る。

日本人が感情的であるということの流れがこういうふうに来るか、と、度肝を抜かれた。ビジネスの戦争も、「シェア」を奪うのではなくここに根源的な行動動機あるとしたら、そこに「モチベーション」というカタカナ英語は不つりあいな気がする。ビジネスがスポーツ競技で、ルールとジャッジが明確ならしっくりなんだろうけど。

<301ページ 宗教的体験 より>
裸一貫の本当の人間の姿はどこで始めて拝まれるのか。各種の衣装を脱ぎすて、色身も精神も心も霊魂もみな悉く脱ぎすてて始めて拝まれる人間とは如何なるものであろうか。これを拝みたいと希う心の働くとき、宗教がある。この心に激せられて歩歩内省の途を辿るとき、遂に「自己」の正体に撞著する時節がある。これが宗教的体験である。自分はこれを霊性的自覚という。

「裸一貫の己を拝みたいと願うとき」。よいときも悪いときも、内に向かう瞬間に宗教がある。というふうに読みとった。


きっかけがあってもなくても、積極的に内へ向かうそのときに信仰が生まれる。
霊性的自覚」なんて考えたことはなかったけれど、自分の中に比較モノサシのようなものがどんどんなくなり始めたとき、瞬間に向き合うことに生命力をみたとき、そういうゆったりとした意識の変化のようなものを振り返るきっかけになりました。
宗教は「つらいことのとらえかた」、宗派は「その言語バリエーション」のように思っていたけど、それはメソッドのなかにある要素であって、宗教そのものは「発心」のほうが近いものなのだなと、そんなことを思いながら読みました。