「禅と日本文化」の「禅と茶道」の章から、今日はヨガにまつわる部分を抜き出して紹介します。
日々ヨガを自分なりに体験も含めて学んでいるのだけど、いろいろなところで違和感のような、感覚ギャップのようなものを感じることがあります。
一時期インドのマントラをいろいろと読んでいたことがあって、「Om Santi(Shanti)」というのは一連のシメのフレーズのようによく登場するのだけど、ものによっては唐突に感じていました。
そこはあまり気にせずに違和感を放ったままにしていたのだけど、感覚的にOmは身体的に腹オチするけれど(だから聖音なのね)、Shantiはまったく逆の感覚だった。
大別すると、マントラのなかで語られていることのスジは、この2パターン。
■1:自然の恵みを讃歌する → オーム・シャンティ = しっくり
■2:神を崇め、力を与えたまえと願う → オーム・シャンティ = ホヨヨ?!
「このホヨヨな感じはわたしが日本人だからだろうな。西洋人の人たちはメンタリティとして2の流れも気持ちよかったりするんだろうな」というのを、これまではなんとなく自分のなかでだけ消化していた。
鈴木大拙氏の「禅と日本文化」の最終章を読んでいたら、このざっくりとした理解を分解して説明されるような、そんな部分がありました。
関係する2箇所を引用しながら紹介します。
<221ページより>
Religion can sometimes be defined as a way of escape from the humdrumness of this worldly life. Scholars may object to this, saying that religion aspires not to escape but to transcend life in order to reach the Absolute or the Infinite. But, practically started, it is an escape where one finds a little time to breach and recuperate. Zen as a spiritual discipline does this too, but as it is too transcendental as it were and inaccessible for ordinary minds, the tea-masters who have studied Zen have devised the way to put their understanding in practice in the form of the tea-cult. Probably in this too a great extent their esthetic aspirations asserted themselves.
宗教は時とすればこの世俗の無味単調から遁れる道と定義することもできよう。学者はこれに反対して、宗教は「絶対境」または「無限」に到達するために生を逃避するのではなくて生を超越することを求めるのだというかもしれぬ。しかし、実際上からいえば、宗教も暫時息をついて恢復できるようなところへの逃避である。禅は精神的鍛錬としてはこの事もするが、いわば超越的すぎて、普通の心ではいたれぬところがあるから、禅を修めた茶人たちは茶の湯の形でその了得したところを実行する途を工夫したのである。おそらくはここに彼らの美的思慕(エステチク・アスピレーション)が現れることも大きかったのであろう。
ヨガをはじめるきっかけは西洋人的な興味であったとしても、「続ける」となると、たぶんこういう茶の道と同じような「修練の積み重ね」のほうに美を見出すDNAのような刷り込みにかえっていく気がする。
ガリガリとアーサナや瞑想に夢中になり続けられる人は稀で、「超越的すぎて、普通の心ではいたれぬところがあるから」というところに気づいてから、ヨガが特別なことではなく、身近なことになる。
以下はシャンティ(Santi/Shanti)という単語が登場する部分なのだけど、とてもロジカルに整理されているので、引用紹介した後にちょっと整理してコメントします。
この部分は、「南方録」(千利休の弟子、南坊宗啓が利休の談話や所伝を記録した茶の湯の教典)の説明の流れに登場します。
<215ページより>
I have used the term tranquillity for the fourth element constituting the spirit of the tea-cult, but it may not be a good term for all that it implied in the Chinese character "Jaku(chu). Jaku is sabi in Japanese, but sabi contains much more than tranquillity. Its Sanskrit equivalent santi, it is true, means but sabi contains much more tranquillity "peace," "serenity," and jaku has been frequently used in Buddhist literature to denote "death" or "Nirvana." But as the "poverty," "simplification," "aloneness," and here sabi becomes synonymous with wabi.
To appreciate poverty, or to accept whatever is given, a tranquil mind is needed, but in both sabi and wabi there is a suggestion of objectivity. Just yo be tranquil is not sabi, nor wabi. There is always something objective which evokes in one a mood to be called wabi. And wabi is not merely a psychological reaction to a certain pattern of environment. There is a principle of estheticism in it, and when this is lacking poverty becomes indigence, and aloneness ostracism or inhuman unsociability. Wabi or sabi, therefore, may be defined as an esthetical appreciation of oiverty; when it is used as a principle of art, it is the creating or remodeling of an environment in such a way as to awaken the feeling of wabi or sabi. Nowadays as these terms are used, we may say that sabi applies more to the individual objects and environment generally, and wabi to the state of life ordinarily associated with poverty or insufficiency or imperfection.
茶の湯の精神を組み立てる第四の要素に自分は "tranquillity" (静寂)という語を用いたが、これは漢字の「寂」という文字に含まれるいっさいを表すに適した用語ではないかも知れぬ。「寂」は日本語の「さび」である。が、「さび」は静寂よりも内容が広い。寂にあたる梵語のSantiは事実「静寂」「平和」「静穏」を意味し、「寂」はしばしば仏典では「死」または「涅槃」を指すために用いられてきた。しかし、この語が茶の湯に用いられる時には、その指すところは「貧困」「単純化」「孤絶」などにちかく、ここに「さび」は「わび」と同意語(シニノム)となる。
貧困を味うために、あるいは、与えられしものをそのままに受容れるためには静かな心が要る。が、さび・わび両者には対象性が暗示される。「わび」という気分(ムード)を引き出すなにか対象物がいつも存する。「わび」は単にある型の環境に対する心理的な反動ではない。そこには美的指導原理が存し、これを欠けば貧困はただの貧困となり、孤絶はオストラシズム(訳注、貝殻追放、より絶交、排斥の意)や非人間的な非社会性となる。ゆえに「わび」や「さび」を定義して貧乏の美的趣味となすことができよう。これを芸術の原理として用いる場合には、「わび」や「さび」の感情を目覚ますような環境をつくりだすこと、または、模造することである。今日この語を用いる場合には、「さび」はいっぱんに個々の事物や環境に、「わび」は通常、貧乏、不十分あるいは不完全を連想させる生活状態に適用される。
主語を「シャンティ」のほうへ置き直して、わたしの解釈もくわえて整理すると
- 梵語のSanti(Shanti)は「静寂」「平和」「静穏」
- 「寂」は日本語の「さび」で、これにあたる梵語もまた「Santi」
- 茶の湯の教えになると、「寂(さび)」は「侘(わび)」と同意語となり、それは日本人の持つ特有の質素嗜好のようなもの
- 「質素」は欲しいものが得られない悲しい貧しさのニュアンスではなく、すでにある状態に加減を望まず「そのものをそのままに愉しむ」という独特の美徳
「祈りごと」「願いごと」をする場面では、インドのマントラのような壮大すぎる力よりも、「昭和枯れすすき」のほうがしっくりくる人種なんだよな、どうにも。と思う。
「穏やかでありますように」と心底願わなくてもよい、冬は厳しいが春は毎度やってきて、桜が咲く四季のある風土のなかで「ことさらに願う平穏」は「社会」に対するものばかりで、宇宙だの輪廻だの「つながり」なんてことにまで及ばない。自然宇宙に対して、日本人は少し違う感覚を持っている。
だから、パワフルな願いに「シャンティ」がくっつくと、ぎこちなくなる。ここで「ピースフルな気持ち」を感じて高揚しちゃうのは、もう半分以上は東洋人じゃなくなってるでしょ、と思う。
同じ東洋人でもインド人の場合は、「ビシュヌ萌えぇぇぇ」「ビシュヌの持つシャクティはなんでもできちゃうの!」といったようなまた別の感覚があると思うのだけど、日本人はそうはならんだろう。(ここはヒロイズムの話にもなっていくのでまた別の機会があれば書きます)
ヨガへの入り口やきっかけが西洋的なものであったとしても、続けていくうちに、「日本人なわたし」があれよあれよとあぶり出される。
その違和感をはそのままに、東洋から東洋という流れの範囲でしっくりいくルートを探っていくと、その中間に仏教が登場したりする。日本人がヨガに触れていく楽しさは、ここにあると思っています。