うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

今に生きる親鸞 吉本隆明 著

本文の下に用語の解説がついていて、仏教の入門本としてもすばらしい。
やわらかくわかりやすい文章だけど、「ここがすごいんです親鸞」という言い切りの要素は吉本氏の「現代社会」のフィルタをしっかり通されている。何度も印象に残った箇所をまためくってみる、そんな本。
すべてについて同じ解釈にはならないし、わたしなりに親鸞については思ってみたりする。親鸞という人は、「男から見た親鸞」と「女から見た親鸞」は、たぶんちょっと違う色合いだ。そこが、「とにもかくにもすごい、空海さん」とはまた別の魅力。

わたしの感覚だと、たとえば裁判に喩えると

  • 空海さんが裁判長だったら、どういうわけかみんなその場では非を認めてまとまりそう。でもまた再炎上しそう。
  • 親鸞さんが裁判長だったら、とことんエグい言い訳が出尽くした後に、和解できそう。

「鎮魂家」と「思想家」。

こんなに親鸞親鸞と人気の理由はよくわかる。こっちのほうが、今に生きる。この本のタイトルもそうだ。


印象に残った箇所を紹介します。

<13ページ 序章 親鸞との出会い より>
 親鸞真宗の始祖ですが、信仰によって僧侶であったのではなく、理念と思想がたまたま宗教の形をとらざるを得ない時代だったから僧であったにすぎません。また、僧侶だったから浄土門の経典を註釈したのではなく、しそうがたまたま仏教の形をとらざるをえない時代だったから、仏教的であったにすぎません。

たまたまいまの時代だから事業をしている、という、思想家的な事業家もいるね。

<26ページ 法然の教え より>
 法然と叡山や栂尾の明恵のような名僧・学僧たちと何が違っていたのでしょうか。わたしがいちばん重要な違いと考えるのは、法然には生々しい現実社会の動きや変化の方向がよく洞察できていたのに比べ、叡山やその他の学僧たちは、自分たちをそんなことにかかわらない僧侶としての修行を志し、それを遂げればいいと考えていたにすぎない点だと思います。

生々しさの見つめ方とか、テンパった人たちとの向き合い方とか、親鸞を素直に「ようやってたよなぁ」と思うのはそういうところ。ちなみにわたしは明恵さんについてはそんなふうには思っていない。(明恵さんがイケメンだったからって擁護しているわけではない)

<40ページ 関東から京都へ より>
 京都では、もっぱら『教行信証』などの著作を書くかたわら、関東の弟子たちから質問状が来ると、それに書簡で答えていいました。『教行信証』のおしまいに近いところに、自分の布教した考え方を「浄土の真宗」と書いています。そこで親鸞の教えを「浄土真宗」あるいは「真宗」といい、法然とその直弟子たちの教えを「浄土宗」というようになったのです。

このへんは、わたしも家系図のように整理してインプットしたのだけど、「しんがついたら、しんらーん」と覚えている。髪があるというフラグもわかりやすい。

<76ページ 一念義 より>
 なぜ人間は、なにかにすがって自分の罪を消滅させようと考えたり、死後の安養の世界を夢見たりしてはいけないのでしょう。そうすると弥陀の本願の規模を小さくしてしまうからだと、親鸞は答えています。これを普遍化した言い方にすると、
「人間の世界は、小さな救済、小さな脱出、小さな作善を選びとろうとした瞬間に、世界苦が見えなくなるようにできている」
 と、言っていることになります。

はからい即盲目。わざとらしくない心。それを、「わざわざ制しない、わざとらしくない=好き放題」ということにしちゃえという人たちが出てきて「俺そんなつもりで言ってねーし」という親鸞に、わたしはひどく救われる。言葉を利用されると思うと発言できなくなることが多いから。

<104ページ 懺懈 より>
 インド、中国の浄土門の僧や法然などからの抜き書きの間に、自分の本音を出したものがはさまれている。本音を言わなければ、坊さんというのはウソばかりついているな、ということになってしまいます。ただ理想や理念を言っているだけのことになります。自分は、ここまではいいんだけれども、ここはダメだとか、そこまで徹底しないと本当にはなりません。親鸞は、そこをちゃんと徹底している。それがまた親鸞のすごいところです。

グラデーションの存在をちゃんとあきらめているところが、親鸞の強さ。

<182ページ 善と悪 より>
 人間の善悪は、決して一重底ではありません。一重底の善悪を否定すると、二段目の善悪がきっとでてきます。二段目を否定すると、三
悪がまたでてきいます。それを無限に否定していくと、その果てにほんとの善悪が開かれる状態がでてきます。
 人間の善悪、倫理は、大変気をつけなければならないことです。信仰を除けば、一番気をつけなければならないことだと思います。また、それは思想の一番大きな眼目だと思います。なにを善としてなにを悪とするかをよく考えてみると、その思想はどの程度の思想か、どの程度のできあいの思想かを判断できるほどです。親鸞の善悪の基準は、たぶん、人間が考えられる最後のところまで達していると思うのです。

このへんのことは「真贋」のほうがわかりやすく書いてある。


目先のことでつらいときには、いつだって親鸞さん。
輪廻の話まで出てきちゃっても教えを請えるのは、空海さん。
そんな感じなのですが、なにかトラブルに巻き込まれたときとか、そういうときは確実に親鸞さん。
接客やカスタマーケアなどの職業の人に、特におすすめです。

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