うちこのヨガ日記

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仏典のことば(第二部:政治に対する批判 ─ 仏教と政治倫理) 中村元 著

先日に続いて第二章の紹介です。
この章に、平安時代のはじめから保元の乱に至るまでの350年間は一度も死刑が行われなかったことと、よその国にはまず例がないでしょうということで中村先生が調べた話がちらりと出てきます。平安時代を中心に歴史に興味があるので、このあたりのことにますます興味がわきました。


この第二章「政治に対する批判」では、組織にまつわる教えが多く登場します。
聖徳太子ファン、道元禅師ファンには興味深い内容かと思います。

<135ページ 官吏の職務と登用 より>
「十七条憲法」の第七条ですが、「官のために人を求め、人のために官を求めず」。
 つまり、官職のために適任の人を求めよ。人のために官職を設けるということをしてはいけない。これは現代の日本の指導者にとって非常に耳の痛いことばであると、ある高級官吏のひとが言っておられました。これは在野の立言ではなくて、聖徳太子自身のことばなのです。

第一章の紹介の最後の引用にも書きましたが、「アイコンとしての官」という役割自体が暗黙の空気として定着しつつある。どんどん慣らされている。

<149ページ 理想的帝王の条件 より>
具体的に法を説くしかたとしては、法の永遠性を主張するために、それが大昔から行われてきたものだと考え、現在は堕落した世の中だと考える傾きがあります。


(中略)


 現在堕落した世相に言及するのに、過去の宗教的偉人の予言というかたちをとって述べるのは、インドの諸典籍に共通な傾向であり、右の一説も実は当時の世相を述べているのです。

右の一説というのはある例をあげてのあとのことですが、例はなんでもかまいません。「予言」は鉄板の手法。いまを生きるなら、ワイルドセンスでいこう。

<163ページ ミリンダ王の問いと十七条憲法 より>
 西紀前二世紀にギリシア人でバクトリアの王さまでありましたミリンダ王という人が、アフガニスタンからインドのほうへ侵入しました。そこで仏教の長老であるナーガセーナと、いろいろな仏教教理の問題について対談しました。その対談がパーリ語で『ミリンダ王の問い』、漢訳の「那先比丘経』として今日に残っています。この二人はいろいろの問題について対論したのですが、ナーガセーナ長老は、対論を開始する前にまず一本、次のように釘をさします。
「大王さま、もしもあなたが<賢者の論>をもって対論なさるのなら、わたくしはあなたと対論するでしょう。けれども<王者の論>をもって対論なさるなら、わたくしはあなたと対論いたしません」


(中略)


 思想の自由と反対説にたいする寛容ということは、インド思想のもっとも重要な特徴でありましたが、ナーガセーナ長老は、ここでもこの伝統を守ろうとしているのです。
 他人の意見に耳を傾けなければならぬということは、わが国では聖徳太子の説くところでした。「十七条憲法」の第一○条です。

「おことばですが」とか「おそれながら」という時点で勢いは半減する。やっぱり「とんち」が必要なんだ。

<181ページ 寛刑主義 より>
刑罰の執行という点で、今のわれわれ日本人として特に考慮すべきは、時間という問題です。現代の日本では時間という要素が忘れられています。この点では道元のことばに耳を傾けるるべきでしょう。
「時すでにこれ有なり、有はみな時なり、丈六金身これ時なり、時の荘厳光明あり。
いまの十二時に習学すべし」(道元正法眼蔵』有時)
 時間は人間にとって、大切な、本質的なものであるということは、いちおうだれでも知っていることですが、時間というものを、つっ込んで考えたという点で、わが国の道元禅師は独特です。かれによれば、時間は人間にとって大切な、本質的なものである。時間そのものがわれわれの実在である。一切の存在もまた時間である。仏の身体は、一丈六尺あるとか黄金より成るとか信じられているが、それは時間のことである。時間というものはそれほどすばらしいものであり、時間には特有のみごとさがある。この時間は、わが国でふつう言われている「ね、うし、とら、う……など」の一二のとき、すなわち二十四時間とお同じものだと学んでよい、と。

ベスト・キッド的なあれはまさに「時間の無駄について考えることについての無駄」を説いているのだと勝手に解釈しているのだけど、端的な効率妄信ではないこの教えの深さ、いいよねぇ。
わたしは笑点大喜利が大好きなのだけど、最後はいつも淡々と「そろそろお時間が来たようです。また来週お会いしましょう」で終わるのがたまらない。「時間を燃やすこと」を見せてもらったようなすがすがしさがある。



今日の最後に、この一冊のなかで中村先生がもっとも唾を飛ばして語っていそうな雰囲気が伝わってきた部分を紹介します。

<151ページ 日本人のアイデンティティ 古きよき伝統の破壊 より>
常用漢字、地名の改廃、相続税の過酷さなどを例にあげたのち)
 家の伝統を認めないという点では、日本の政府は、共産主義中華人民共和国よりももっとひどいと断言していいと思います。その行きかたは民衆の間に残っている生きた伝統を破壊することになる。
 なぜ伝統の破壊が堂々と行われているか。それは恐らく、敗戦ということが日本人にとっては初めての経験であり、戦争に敗けたのは過去の日本が悪かったからだと考えて、じゃあ昔からのことは全部やめてしまえと、短絡的に結論を出したためじゃないでしょうか。
 これをドイツと比べてみると非常に違います。ドイツ人はもう敗戦には慣れっこになっていますので、「ああ、また敗けた」くらいにしか考えていない。だから過去からの文化的伝統に対して、かれらは強い誇りをもっています。

最後のドイツのところは講演録なのでこう、おもしろくそのへんの雰囲気を出したのだと思うのですが、日本人のアイデンティティの説明としてすごくわかりやすい。


野口晴哉氏の伝記を読んで、その時代が関東大震災の直後であったこと、そこから見いだした思想であることを知ったのですが、アイデンティティというのは、想像を超えたときにあぶり出されるものなのだな、としみじみ感じた。
震災のあと、よく友人と「寄りかかりたい人と自立している人に二分されているということが可視化されたような気がする」とか、「敵を見つけて安心したい心理というのはなんなのか」という話をするようになり、「だってあらかじめそうだったんだもの」と言ってしまえれば楽だもんね、という話にいきつく。
「あらかじめそうだったんだもの」とか、「従ったのに」という気持ちこそがエゴの顕在化であるのだなと、そんなことを考えることが多かったので、この中村先生のアツい論にシビれました。
「昔からそう言われているよ」という論法についての釘さしも、すごく身に沁みた。


安心のありかについて、「そんなものなど、歴代どこにもない」ということを、あらためてとことん示す、そんな力強い章でした。