過去に対談本を紹介しましたが、養老孟司さん単独の著作を読んだのはこれが初めてです。
中央公論に2001年1月から2003年9月まで掲載されていた連載をまとめた一冊。題材は当時の題材なのでもう10年くらいたつのだけど、いくつかの要素はさらにエスカレートした状況がある。いま読んだらいま感じることがある、という内容のものばかりでした。
視点は身体的かつ宗教的で、語り口はどきどきするほどまっすぐ。自身で「語ること」を分解して書いている部分にも引き込まれた。なかでもインドのカーストについて語っている「鉛筆を拾ってはいけない」は名作。
30項目の題材の中から、強く印象に残った箇所を紹介します。
まずはその人となりやスタンスがわかりやすい箇所から。
<46ページ いいたくないこと より>
いくら私が爺になったからとはいえ、私が倫理について述べる世の中になろうとは、まさに夢にも思わなかった。子どもの頃から私は倫理は大嫌いで、鈴虫じゃあるまいし、とうそぶいていた。私が倫理を論じるのは、まさに八百屋で魚を買おうとする類であろう。下手に元気で長生きをすると、こういう目に遭う。
わたしは壮年のギャグに弱い。
<86ページ テロリズム自作自演 より>
他人の気持ちを推し量ってなにかをしようとすること、そんなことに興味はないし、聞き飽きた。あなたは本当はどうありたいのか。そこが聞きたい。やむをえないから働くしかない。そんなことではない。一度しかない一生を、どう生きたいのか。そのホンネが聞きたいのである。
いくつか9.11について触れる題材があるなかの結び。今年は3.11のあと「他人の気持ちを推し量って何かを語ること」について考える場面が多かった。
以下は、「これはリアルタイムで読みたかったな」と思った。
<216ページ 部族としての日本人 より>
首相が靖国に参拝することは「内閣の支持率を上げる」ためではまったくない。考えようによっては、それと支持率を並べること自体が不謹慎である。自分が施政することによって、これから生じるかもしれない、すでに生じたかもしれない犠牲者、それに対する想いが靖国参拝の基本にある。なければならない。それはなにも戦争の犠牲者だけを指すわけでもない。軍人がそのもっとも直裁な例であるということに過ぎない。
「それと支持率を並べること自体が不謹慎」というのが刺さる。「参拝」という行為が古くからある「祈り」の行為であることをまったく感じられないニュースばかりを見たから。きっとその頃、「祈り」すらも「戦略」として報じられることに違和感を感じていたんだな、と、いま思う。
ここからふたつは、「情報」の話。
<10ページ 学習とは文武両道である より>
現代は情報化社会であり、おおかたの人々はそれをよしとしている。それでも結構だが、そのときに忘れてはならないことは、情報は固定しているが、人は生きて動きつづけているということであろう。情報が変化していくのではない。われわれが変化していくのである。
五木寛之さんが以前「情を報じるのが情報」と書かれていたのが今でも印象深いのだけど、いま「ログのように報じられている」情報は「過去のある視点からある状態を見たものを報じている」というものがほとんどで、「ある視点」を仮に「情」として見ても、「悪意」の情が多くて疲れてしまう。「状報」でもなく「情報」でもないものに見える。
だから発信者が明確なものに人の目が集まっていくのだろうと思って最近の状況を見ている。「だれかのいまの頭の中」に関心が集まっているんじゃないかな。ニュースに対するにネット上の人の発言を見る限り、「人は生きて動きつづけている」ということを忘れていないと思える記事も見かける。これは、よい現象だと思っている。
<161ページ 地球温暖化論に根拠はないが より>
未来に対する予測は、その変わるべき自分をつねに棚に上げる。それが情報化社会なのである。情報は固定して動かない。意識は自分を情報だと規定する。つまり俺は俺として本質的には変わらないと信じるのである。そういう情報化社会の人間は「ああすれば、こうなる」のだからと、たえず未来を予測しようとする。遺憾ながらそこには自分の変化が入っていない。それは当然で、あくまでも「俺は俺」だからである。そんな予測がアテになるわけがない。見方が変われば、つまり統計値をとっている当の自分が変われば、統計値のとり方が違ってしまう。
「遺憾ながらそこには自分の変化が入っていない」「見方が変われば、つまり統計値をとっている当の自分が変われば、統計値のとり方が違ってしまう」ということを、なにかのまとめをするときによく考える。先に「変化」についてのコンセンサスをとらない雰囲気でまとめるというのはよくある場面なのだと思うけど、できるだけこういうことがないようにできるかどうかがとても大切。わかっていてもいつもうまくはできないから、修行は終わらない。
次は、「問題」のしくみ。
<67ページ ありがたき中立 より>
例は悪いが、だれでも小便はする。それは生理的な「中立」行為である。しかし小便の当たる先に、政治的指導者の写真が大きく載った新聞があったらどうか。小便があくまで個人的行為であるなら、問題はない。問題はそれを見ている人がいたときである。
同じ生理的、中立的行為が、そこではたちまち政治的行為に転換する可能性がある。中立的行為だからといって、状況
によっては、うかつに小便もできないのである。
すごくわかりやすい喩え。「小便の当たる先に、政治的指導者の写真が大きく載った新聞があったら」であればわかりやすいものが、「なにやら誰かがバッシングされている」というニュースを見ても「要素が多すぎて "小便の当たる先にあるもの" がわからない」ことがよくある。最近ニュースについていけない。
<93ページ 鉛筆を拾ってはいけない より>
不景気だ、だから景気振興だと、いろいろな人がいう。私は以前から、正確にいうなら昭和天皇の御大葬の頃から、経済を疑っている。じつは需要がなくて、供給過剰なのではないか。それならデフレも当然である。生産性は数十年前に比較して、一桁上がっているという。それなら、労働は一桁分、不要になるはずである。翻訳すれば、「仕事がなくなる」はずである。これまで十人以上でやってきた仕事が、一人でまかなえるからである。そうかといって、人間に必要なものが無限な増えるわけではない。それならどこかで供給過剰になるはずではないか。
そこではじめて、インドのカースト制の意味がわかる。鉛筆を落としたら拾ってはいけない。拾う人の仕事を取ることになる。生産性の向上に賭けてきた社会がそれを理解する時期が、そろそろ近づいたか、どうか。
「インドっていまでも差別があるんでしょ」という質問をたまに受けるのだけど、ひとことでは答えられない理由がまさに、こういうこと。インドだけのことに限って答えようとすると、紀元前からの歴史抜きには語れない。
「仕事がある以上は差別があってバランスしてる。その質や見えかたの違い」というところに踏み込んだら「うわ。そんな重い話いきなり」となりそうなので、こういう質問にはいつもちょっと困ってしまう。
ここからは身体論がベースになっている箇所を紹介します。
<21ページ 現代こそ心の時代そのものだ より>
食欲や性欲を通常の欲望とすれば、金欲はメタ欲望である。欲望を満たす可能性への欲望だからである。個々の具体的
望は、それ自体を満たせればとりあえず消失する。欲望への欲望はそうはいかない。
そこから私の考えは、欲望の逆方向へ飛んだ。たとえば不安はメタ恐怖である。恐怖は対象が明確だが、不安の対象は不明確である。不安の対象はかならず漠然としている。
ブッダみたい。
<97ページ 脳という都市、身体という田舎 より>
比喩としていえば、人間は脳という都市と、身体という田舎を抱えている。その意味では、世界は等身大である。都市と田舎からできているからである。それなら戦争やテロは心身症である。心にも体にも、つまり都会にも田舎にも症状が出る。しかし心身症で治療したほうがいいのは、頭である。
<203ページ 目的のない組織と個性のありか より>
教育に個性という言葉を持ち込んだとき、この言葉は身体に該当すると思った人がいなかったらしい。教育は「頭の教育」だと、ほとんどの人がまさに「頭から」信じていたからであろう。教養とは「身につける」ものである。「身」とは身体ではないか。躾という文字もまた、同じ洞察から生じているはずだ。「身が美しい」。身体の動きは表現であり、そうした身体表現の完成した形を、わが国では伝統的に「型」と表現した。
型を止まってしまった過去のものと理解するのは、理解ではなく誤解である。茶道はたしかに型だが、茶道のどこが止まっているか。客はたしかに座っているが、主人は動いている。武道のどこが止まっているか。たしかにジーッと一時間、名人どうしがただにらみ合って、最後にどちらかが「参った」といって、刀を捨てる。それは講談である。
じゃあ、頭に個性があったら、どうなるか。理屈であれ、感情であれ、その人だけのもの、その人しか考えない、その人しか感じない、そういうものが、頭の、つまり心の個性ではないか。そんなものがあったら、どうなる。精神科に入院するしかないであろう。現にそうなっている。
(中略)
個性のあるのは身体で、頭にあるのは共通性だ。それを私は年中いうが、ほとんどの人はポカンとしている。やっぱり個性とは、私だけの思い、私だけの考え、私だけの感情だと思っているのだろう。それならそう思っていればいい。そういう世界では、学習は反復練習だ、身につけることだ、という常識は消えてしまう。
(中略)
現代人は「私は私」、個性を持った同じ私だと信じて疑わない。「同じ」なら「変わらない」わけで、変わらないのは情報だから、自分は情報だというのが現代人なのである。そこでは教育は成り立つはずがない。だって「同じ私」ではないか。教育の効果がどこにあるか。教育は人を変える作業で、「同じ私」に教育の効果があるわけがない。
「個性のあるのは身体で、頭にあるのは共通性だ」と著者さんはおっしゃっていますが、うちこは「身体のほうが共通性を先に感じ取ることがある」というのをヨガで学んだ。頭のほうが個性的になっちゃっているとき、「それ体がカタイんじゃなくて頭がカタイんだよね」とインド人はあっさりと指摘する。
そして、この章の途中にある以下のくだりにはドキドキした。
なぜ私は、ここにこんなことを書いているのか。読者諸氏の理解を求めている。私の言い分が理解されるなら、それは事態に対する共通の理解となる。「共通の」である。それなら、理解されたときから、個性などない。共通だからである。私の主張がまったく理解されなければ、それはまさしく個性であろう。しかし私は、理解されまいとしてものを書いているわけではない。
ハンパなくジゴロすぎます先生。
最後は、「大学という社会」についての話。
<20ページ 現代こそ心の時代そのものだ より>
いまでは大学も完全に世間のうちになった。したがって大学は、もはやものを考える場所ではない。
さらに学問はかならずしも他人を満足させるためにするものでもない。その結論が、当面は世間の害になることすらあろう。しかし人間関係が中心の世界では、世間の害になる結論など、そもそも出るはずもない。他人の機嫌を損ねることは、いまでは人間社会の禁忌に近い。
社会人も参加できる慶応大学の夜間スクーリングで宗教学や心理学、倫理学教授のリレー講座を受けたとき、「世間のうちになった場での講義としてリスクヘッジされているいろいろなこと」をつい勘ぐって聞いてしまい、「大学教授も企業人並にコンプライアンスでガチガチなんだなぁ」と思ったりした(題材が「スピリチュアリティ」だったので、というのもあるけれど)。
そこで「近年の学びの場の現状」を見たこと自体が、自分のなかの学びとして巨大コンテンツになった理由はまさにこういうこと。このことをいつか書こうと思いつつまとめられずにいたのは、「受講者」の立場で考えてみたあとの結論が「独学でいいじゃん」ではなかったため。講義そのもの以外の「肌で感じたこと」も含めて、自分の中にある「なぜ?」に答えをもらったような内容だった。
文章を書いていると「意志」と「意思」の漢字の使い方に迷うことがあるのだけど、あらためてここで感想を書きながら「86ページ テロリズム自作自演」の部分を読み直して、こういう迷いの背景を紐解かれていくような、そんな気分になりました。
いまでもまだ感覚的にパッと使い分けられない漢字なのだけど、そこには「他人の気持ちを推し量る」という行動が「主語となる人の頭の中でどう関わっているか」というところに着目しないと違いが見えない。それが量なのか、質なのか、その掛け算なのか、あるいは見切るラインの男らしさのようなものなのか(女だけど)。
繰り返し考えて身につけていくというのはそういうことなのだろう、ということも含めて、養老先生の身体論は最高に面白いことを知ってしまったのでした。