うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

発達障害に気づかない大人たち 星野仁彦 著

おもにADHD(注意欠陥・多動性障害)、とAS(アスペルガー症候群)について解説されている本。
心理学を学んでいる友人が「うちこにはこれ、面白いと思うよ」といって譲ってくれた。
著者さん自身も発達障害だといい、巻末にはあんな偉人もこんな偉人も、と天才の名が並ぶ。読みながら、読者のわたしも「自分もそういう要素がある」という気持ちになる構成。よく売れた本のようで、賛否両論な状況。「広い理解を」という明確な目的を持って書くスタンスとしては、立ち位置を明確にしているのはよいことだと思います。


そういう本なので、こうして感想を書く側も立ち位置を明確にしないと書きにくい。今日は先にこういう視点で読んだという気持ちを書いておきます。
まず「ネット依存」については、ジェネレーション・ギャップやデジタル・デバイド(最近もう聞かなくなった言葉)を感じながら読みました。この著者さんから見たら、わたしはネット依存のADHDということになるでしょう。このへんに対する著者さんの考え方には、「ネットの中は、そういう面ばかりではないですよ」と意見できる部分もある。それはコメントの中で書いていきます。


身体論者のヨギという立場で読むと、「えらく残酷な理論だなぁ」というのが感想。
著者さんが医師なので終盤は「治療」という話になっていくのだけど、心について「固まったなにか」という見かたをしないと、「治療」という発想がはっきりと湧いてこない。完治というものがそもそもない前提で「バランスをとるためのさまざまなこと」を日々思っている。お医者さんの本のなかで、この本はなだいなださんや加藤諦三さんの本を読むのとは逆の感覚で読むことになりました。なださんや加藤さんが異常に哲学的でヨガっぽすぎるのか、と思うようになりました。この本には哲学的・宗教的な要素がまったくない。


その上で、だからこそ断言するには勇気のいることを「発表する」という行為はある意味誠実な行いかもしれない。第4章は、ヨガ的にいうと先天カルマの話です。この分野について遺伝を理由に述べるのは大変なことでしょう。


第5章以降は薬の種類の説明からカウンセリング、周囲の人はどう向き合えばよいのかというさまざまな対応についての記述になり、「適職に就くこと」の重要さが何度か語られます。ここについてはOLとしての感想ですが、「適職」であっても市場の変化とともに評価基準も変化する世の中なので、厳密には適職というより、「変化する市場環境の振れ幅を踏まえた上での仕事の性質」といったほうが正しい気がした。
たとえばずっと「書店員」であっても、世の中の変化(ネットで本を買う人が多い時代)でネット書店を併用する人としない人ではリアル書店に期待するものが違う。リアル書店のサービスの質も変化を求められる。売上とコストのバランスから、売場面積の使い方に対するポリシーを変えなければやっていけないということになる。店員もそれに併せて変化が求められるだろう。
この「適職」について自分のなかにある引っ掛かりを分解してみたら、もはや「カウンセリング」といわれるものは「コンサルティング」の域にあるように思えてきた。「世の中がこういう風に変化しているので、この仕事では今後こういうことが予想されます。そのときはこんな気持ちで捉えていきましょうね。そのうえで、この市場を楽しみながら仕事をしていきましょうね」というようなこと。
近視眼的なハードルを乗り越えることに苦労する人が適職につくためのカウンセリングをするという仕事は、かなり高度な技術だと思う。カウンセリングというベーススキルの上に職種別の専門性がくっついてこないと解決指南は難しいだろうな、なんてことを思いながら読みました。



いくつか印象に残った箇所を紹介しますが、まず先に著者さんの医師としてのスタンスが明確で、【「発表する」という行為に対して誠実】と感じた第4章から。

<137ページ 心理教育と環境調整法 より>
 発達障害の治療では、最初の面接時から、「あなたの抱えている問題は、あなたの性格や家庭環境などが原因で起きているのではなく、もともと脳の発達がアンバランスで、それが原因で起きていることなのだ。だから心の問題ではなく、脳の問題であり、それは適切なカウンセリングや投薬治療を受ければ、ちゃんとよくなる」ということをわかりやすく説明し、理解してもらうことが極めて重要になります。


(中略)


 たとえ事実を知って一時的に落ち込むことがあったとしても、自分のハンディに気づき、考え方や行動パターンの偏りと歪みの原因を正しく理解することで、その後の人生を前向きに考え、歩いていくことができるようになるのです。

「病気について理解できないこと」と「治療について理解できないこと」は、微妙なようでおおいに違う。という考えを持つようになった。


<63ページ 感情の不安定性 ─「大きくなった子ども」たち より>
 大災害、戦争、強姦、テロ事件……。心に加えられた衝撃的な傷がもとになり、後でさまざまなストレス障害を引き起こす疾患を「心的外傷後ストレス障害PTSD:Post-traumatic Stress Disorder)」と言いますが、これにはなりやすい人となりにくい人がいます。
 近年の米国などの調査研究では、もともと発達障害のある人は、一般の健常な人に比べて些細なストレスやトラウマ(心的外傷)でPTSDになりやすいという報告がなされています。PTSDとまではいかなくても、発達障害の人は過去にあった嫌な体験が些細なことでフラッシュバックして不機嫌になったり不快な気持ちになることが多いのです。

「世の中の不幸が自分の不幸に結びつく」とか、「憎む相手の不幸が自分の幸福に結びつく」とか、無理にそちらに向かわなくてもいいけどそういう紐付けが起こるのが人の心。
世の中にルールやタブーがめきめき増えていく昨今について、先日飲み友達が「これから世の中は良くなる要素が少ないのに、どうしてそっちに向かうのか」と言っていて、「不安に限界がないことがわからないからではないかな」という返答をした。そんなことはその友達もわかっちゃいることではありつつも、「それすらも普遍だから、しょうがないかぁ」と二人であきらめた。
「不安には限界がないから、もぐら叩きのようなことが不毛に思えてしまう」という考え方が「健康」と言われるようになると、それもまたちょっと違う気がする。信じる力が欠けているように思うのはわたしだけか。


<76ページ 新寄追求傾向と独創性 ─ 飽きっぽく一つのことが長続きしない より>
 ADHDではアルコール、大麻マリファナ)、シンナーなどのように逆に覚醒レベルを下げる薬物を自己投薬している者も少なくありませんが、これはそうやって覚醒レベルを下げることで、心のなかの強い不安を解消して安心できるからです。
 一般に覚せい剤などの刺激系の薬物に依存しやすいのはジャイアン型、大麻などの不安をやわらげてくれる "まったり系" の薬物に依存しやすいのはのび太型とされています。

坐禅ブームでもヨガブームでもマラソンブームでもトランス・ミュージックでも、代替提案として拾えるのはほんのひとにぎり。なかでもマラソンオーバードースを防ぐ物理的な限界(怪我するとか疲れるとか)があるからおすすめ。


<102ページ 言語コミュニケーションの欠如 ─ 会話のキャッチボールができない より>
 知能の高いASの場合、幼児期の言葉の遅れはありませんが、彼らの言語コミュニケーションは一種独特なものがあります。
 会話は一方的で自分の言いたいことだけ話して、相手の話には興味や関心を示しません。言葉のキャッチボールが成立しないのです。人との会話がうまくできないのはASの大きな特徴です。
 会話の仕方は形式的であり、同じ言葉の繰り返しや独特の言い回しをします。話し方に抑揚がなく、会話の間も取れません。しばしば話は、回りくどく、細かいところにこだわる傾向が顕著です。しかもあちこち話が飛びやすいので、聞く方は疲れます。
 難しい言葉を使ったり、大人びたしゃべり方をする一方、含みのある言葉や裏の意味は理解できません。言葉の意味を字義通りに捉えるので、冗談やユーモアが通じず、たとえ話を本気で受け取ります。

ひとつもあてはまらない人のほうが少ない気がするくらい盛りすぎな気がする。


<105ページ 協調運動の不器用さ ─ スポーツや手先の運動が上手にできない より>
 ASの人は、独特な歩き方や走り方をします。つま先や膝を曲げたまま歩いたりするので、ぎこちなく、操り人形のように見えることがあります。

これは、なんだかよくわかる。野口先生がいうところの上下型(頭脳型)。頭の緊張状態がデフォルトすぎる感じ。その緊張の数と量を減らすために、テンプレート的なフレーズのくり返しや「とりあえず敬語になっているかのような冗長表現」で工数軽減をしようとしている。というふうに考えるとすごく腑に落ちる。
身体が心に影響するという点からいうと、膝を曲げなければバランスをとって歩けない靴はやっぱり回数を減らしたほうがいいと思うんです。(女子のみなさんはこれを読んでね


<164ページ 長時間のテレビやゲームやネットが脳の活動を低下させる より>
発達障害のある人(特にADHDやASの人)は、インターネットやゲームなどにはまりやすく、寝るのも忘れてこれらにのめり込む傾向が顕著です。不登校から長期間のひきこもりやニート状態になっている人は、ほとんど例外なくこれらに依存しています。
 彼らがこれらに依存しやすいのは、セルフコントロールの欠如、感情の不安定、新奇追求傾向、対人スキルの未熟性など基本的には彼らの脳機能障害と深く関連していますが、故・小此木啓吾氏はこの依存生に関しては次の五つの心理的カニズムを指摘しています。
(1)現実社会で自己評価が低くても、インターネットのなかで匿名で別の人格を演じることができる。
(2)ネットから得られる膨大な情報は、無限の知的好奇心を満たし、ある種の全能感が得られる。
(3)自分が傷つくことなく気持ちを純粋に相手に伝えられる。
(4)過去の自分を知らない新しい友だちと親密な一体感をもてる。
(5)現実の人間社会と異なり、義務や責任がともなわないので、嫌になったらいつでもやめられる。

90年代に本を出されていた人の記述なので、変化の速い領域のことをいま引用するのは、考察する面の数が少ないように思う。少なくとも(3)はもはや幻想だし、(1)も完璧じゃない度が高くなっている。(4)と(5)はもうグラグラに危うい。(2)で得た全能感を下手に出しようものなら大バッシングを受ける。もはや閉じられてはいないから、ネット上も対人スキルが未熟な人は入れない社会になりつつある。
「ネットの中でなら井の中の蛙になれるもんね」と若者に対して突き放して言える状況ではないのですよ昨今のネットは。と思うと同時に昔のネットのあたたかい部分はそこにあったな、とも思う。


バランスのなかにある要素を取り上げて書くというのは、とてもむずかしいことなのだなと思った。
そしてサービス精神にソリューションはつきもので、それをしようと思うと残酷にならざるを得ないというのもまた普遍的なことであるようにも感じた。


「そうでありながらも、やさしい」


きっと対人スキルというのはそういうことなんだろう。宗教も芸術も、きっとそう。
内容そのものよりも、本の存在自体から「わたしの理解論点の立ち位置」を問われたような、そんな気持ちになる一冊でした。