うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

但し書きは少ないほうがいい

舟歌でいうと、「お酒はぬるめの 燗がいい」のほうではなく「肴はあぶった イカでいい」のほうの話です。
なにかってときは友人知人が力になります。
頼みごとができる間柄というのは「代償を求めないだろうなとこちらが思う」もしくは「代償をはっきり言ってくれる」のどちらか。そうでない場合は、お互いの役割に相乗効果があるときですが、これはもう頼みごとのニュアンスではなくなる「コラボレーション」の域。


なにかをお願いするとき、まず顔が浮かぶのは「できるだけ但し書きのようなことをいわなくてよい人」です。



 「ボディ・ガード募集。ただしわたしのボディに触れない人」


 「付き人募集。ただし必要でないときまでついてこない人」


 「サポーター募集。ただしわたしの名前を自分のサポートに使わない人」




なんて但し書きは、妙ですね。妙だから見かけない。そりゃそうだ。
「応援する」というのはとても便利な言葉で、「執着します」の言い換えだったり、逆の視点で言う場合は「応援していますよ。ただし、わたしに依存しない限りは」という条件が含まれていたりします。
よくそこにくっつく「陰ながら」という言葉が、実は「影ながら」だったりすることもある。



プライベートでは、リスクヘッジしてまで考えなければならないような頼みごとは、しないほうがいい。
仕事では、リスクを背負って頼んだり任せたりする。



オンとオフの違いというのは、こういうことなんだろうな。



と思いつつも、こういう但し書きをしたくなるようなことは、よくある。
但し書きをしたくなる気持ちのほうに問題がある場面も多いと思う。
だから、友だちというのはそんなに多人数になりようがない。
「リスクもある知人」に囲まれながらなんとかバランスをとっている時間が、社会人として生きている瞬間なんだろうな。


先日、五木寛之さんの本に、「旅から戻ると届け物があふれていて、それはストレスなのだけど、それも全体のなかのこと」というようなことが書かれていて、「好意も受け手にとっては負担」というのが本音なのだろうけど、素敵なスタンスだと思った。有名税のような話ではない。いちいち惚れる。


ものすごく大雑把にふたつに分けて、「寄りかかる人」と「寄りかかられる人」しかいないのだとしても、そこはゆらゆらと揺れ続けることを放棄せず、でもときにバサーっときたものは「ひょい」とよける。
心だけは、軽快に。